“長野オリンピック騒動記” | トナカイの独り言

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独り言です。トナカイの…。

 いきなり余談からはじまりますが、本を買うのによくアマゾンを使います。

 スキーヤーにしてはよく本を買う方ですが、もう何年もあまり本屋で買ってはいません。東京に行き、時間に余裕があるとよく本屋に入って、たくさんの本を手に取りますが、なかなかその場では買わないようになりました。

 アマゾンの楽しみの一つ。それは、読者が勝手に書いた書評を読めることでしょう。

 ただし、それには二面性があって、例えば自分の“モーグル・テクニック・バイブル”など、徹底的にけなされていたりします。そんな書評を読むとやはり胸が痛みます。批判を受けることはありがたいことですが、素直にそう思えるには、まだまだ人間ができていません。


モーグル・テクニック・バイブル


 今回の本も、自分の本“流れ星たちの長野オリンピック”の書評に書かれ、知ったものです。

 もちろんわたしの本は批判され、それを書いた人が“モーグル・テクニック・バイブル”を批評している人と同じだったりすることも、ちょっと興味深かったりしますが…。


 長野オリンピックというできごとが、個人としてのスポーツ選手にどんな影響を及ぼしたのかを書いたわたしの本に比べ、この本は政治や社会というものを中心に据え、オリンピックを書いているように思いました。

 わたしとの共通点は「もうオリンピックに幻想は持っていない」というところや、「オリンピックも利権という面が非常に強い」という気持ちでしょうか。

 自分が “流れ星たちの長野オリンピック” を書いた理由は、どうしても「書かざるを得ない」という強い気持ちがあったからです。それは自分が正義と感じたことが、簡単にねじ曲げられたからでしょう。また、わたしが書けば「何かを変えられるかも知れない」と信じたからでしょうか?

 どちらにしても、そんな想いは現在、もっともっと複雑なものへと推移しています。


 小さな時、オリンピックに憧れて水泳をはじめたこと。

 そんなオリンピックをフリースタイルスキーの選手としてめざしたこと。

 そして、フリースタイルスキーがオリンピックに初参加したとき、自分はコーチとしてそれに参加したこと。

 自国、しかも自分の住む場所、長野でオリンピックが開催されるというとき、権力争いに巻き込まれ(相手からすると、わたしも一つの権力と見られたかもしれず)、大きな傷を負ったこと。

 “長野オリンピック騒動記”を読みながら、いろいろな想いが交錯しました。


 これまでもいろいろなところで言ったり、書いたりしてきましたが、“流れ星たちの長野オリンピック”はほんとうなら書きたくなかった本です。書かなくていいような歴史を創ることに貢献したかったというのが本音です。しかし、書かざるを得ない気持ちが続き、どうしようもないままに書いたもの。


 これからは、スキーの素晴らしさやスポーツの素晴らしさを伝える本を書いていきたい。


 近頃、けっこう努力してはいますが、まだまだ足らず、本になるところまで至っていません。でも、頑張りすぎず、諦めず、これからもコツコツと作業を続けていこう。そう決意しています。


流れ星たちの長野オリンピック