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千反田えるはなぜ春の予感を告げたのか?――『氷菓』、ホームズ、歴史の磁場

#22 遠まわりする雛

 米澤穂信による連作短編集『遠まわりする雛』および、それを原作としたアニメ『氷菓』は千反田えるが春の予感を告げ、締めくくられる。これはなぜか。それがこの短い文章が答えようとする問いである。

 「寒くなってきたな」

しかし千反田は、少し驚いたように目を見開き、それから柔らかく微笑んで、ゆっくりとかぶりを振った。

「いいえ、もう春です」*1

 以上は、『遠まわりする雛』の結部からの引用であり、この折木奉太郎と千反田えるのやりとりはアニメ『氷菓』最終話「遠まわりする雛」でもほぼそのままといっていいかたちで使われ、そして物語は終わる。

 夕暮れの道中で交わされるこの短い発話のうちには、いくつもの暗示や暗喩が読み込めることは疑いがない。たとえば、春を告げる千反田の言葉のうちに、青春的なるものへの「保留」から始まった折木の物語が、あからさまに、避けようもなく青春という「春」に向かいつつあることの暗示ともとれるだろう。

 また、黄昏どきという一日のなかの時間のリズムを感受し「寒くなった」とつぶやく折木に対して、千反田は4月の初旬という、まさに春めきつつある一年という長い時間の感覚に身を置いている、という対比をここに読み込んでもよい。このようにこのやり取りに、感覚のずれを読み込むならば、これから同じ空間と時間――学校ないし古典部のなかで過ごされる時間を歩んでいくなかで、そこに否応なしに歩幅のずれがはらまれるかもしれない、という予告ともとれる。

 これはさながら、のちに京都アニメーションによって制作される傑作『リズと青い鳥』の結末の予告でもあるのだが、それについてはここでは措く*2。

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  アニメ版のラスト、狂い咲きの桜が舞うあまりに美しい風景を映したショットのなかに、「通行止め」の橋という不穏な予感を映したカットが侵入していることからも、アニメ版ではこの二人のずれのモーメントが強調されている、とまではいわずとも、存在感をより強めている、とはいいうる。

 このように、このシーンにいくつもの意味を読み込むことは容易いのだが、ここで、この場面と似通ったやりとりをもってシリーズが締めくくられた、探偵小説の古典中の古典を補助線にしよう。そのシリーズとはすなわち、コナン・ドイルによるシャーロック・ホームズものであり、その最後を飾る一篇たる「最後の挨拶」である。

 「東の風が吹き出したね、ワトソン」
「そうじゃないよ、ホームズ。だってとても暖かいじゃないか」

 このおよそ100年前に演じられた、助手と探偵との見事なまでのすれ違い。もしかしたら「遠まわりする雛」のやりとりは、このホームズとワトソンのオマージュなのかもしれないが、それを断定するのは牽強付会という気もする。しかし、100年前の昔から、探偵と助手とはすれ違うものだったのです。

 そして、この「東の風」について、ホームズはこう続ける。

「わが旧友ワトソン!この有為転変の時代にあっても、きみだけは変わらぬ人だね。でもしかし、たしかに東の風が吹き出したのだよ。かつて一度としてイングランドに吹き寄せたことがないような風がね。冷たくて身を切るような風だよ、ワトソン。こいつの吹きまくる中でわれわれの多くが滅びていくかもしれない。しかし、それもまた神の御意になる風なのだ。そして嵐が過ぎ去ったとき、燦然たる陽光の中には、もっと滑らかで、もっと気持ちのよい、もっと強い国が残っているにちがいない。さて、ワトソン、愛車にエンジンをかけてくれたまえ。そろそろ行かなくちゃならんよ。この五百ポンドの小切手も早めに換金しとかなきゃあならんしね。だって、こいつの振出し人ときたら、なろうことなら、いつだって支払い停止なんてことを言い出しかねないもの」*3 

  この、あからさまに書きこまれた不吉な予感について、内田隆三が『探偵小説の社会学』のなかで以下のように解説している。

 この「最後の挨拶」が発表されたのは1917年。第一次世界大戦の戦禍がヨーロッパに大きな爪痕を残し、ドイルの息子もまた命を落としている、そういう時期に書かれたこの「最後の挨拶」の舞台は、1914年、8月2日であるとされる。戦争の惨禍を知った後に、後付的にその禍を予告するようなかたちで、探偵は「最後の挨拶」を終えるのである。

 それは、ホームズの推理の方法論――それを内田は「緋色の研究」とよぶ――がもはや通用しない時代、総力戦によるアトランダムな大量死のあと、もはや人間的な動機に突き動かされた殺人などではなく、動機など二の次のアトランダムな殺人が席巻する、動機ではなくトリックに重きをおいたいわゆる本格推理小説の時代の始まりを告げるものでもあるのだ、と主張しているのだが、ここで重要なのは、シャーロック・ホームズという架空の人物が、その最後には歴史的な磁場に巻き込まれてその活躍を終えた、ということである。

 この補助線をふまえて、『氷菓』においても、その歴史の磁場というモーメントを強引に導入することは可能である。何故なら、この<古典部シリーズ>は、あるいはアニメ『氷菓』は、その始まりでまさに過去の歴史的な出来事が謎の核心部におかれ、その歴史的な出来事がまさに歴史となる必要条件である、その出来事といま・こことの距離、それが明確に記されていることに因る。

 過去の出来事の距離から測られるいまとは、原作では2000年であり、アニメ版においては2012年である。アニメ版が時間的な舞台を原作の12年後に移したのは、まさに2012年に放映されたことによる影響であると推察される。

 2000年と2012年のあいだの隔たりは、12年という実際の時間以上に大きい、といわざるを得ない。たとえば、2009年に出版された吉見俊哉『ポスト戦後社会』は、1970年以後の歴史を、戦後的なるもの――それは家族のありようであったり、豊かさの感覚であったり――がだんだんと崩れ、何かが「終わっていく」過程として提示している。この何かが終わっていったのだ、ということを痛感せざるをえないモーメントは、2000年と2012年のあいだに決定的に生じているように思う。

 だから、原作における千反田の発話と、アニメ版におけるそれとは、まったく同じ発話でありながら、まったく違う歴史の磁場のなかに置かれている。千反田にとって自分の場所が、「人は老い疲れ」ている場所だというとき、その諦観の深度は、12年という時間のなかで一層深まっているに違いないのである。

 そうした諦めの深さこそが、この春の予感を必然性をより一層高めてもいる。いくら人が絶望に打ちひしがれようとも、たとえ老い衰えてゆく場所であろうとも、そこに時が流れる限り、必ず春が訪れるのである。ここにおいて、強引にではあれ、折木の言葉もまた、歴史の磁場のなかにその文脈を求めることは可能である。「人々が老い疲れ」ている場所とは、まさに歴史の黄昏どきを迎える場所のことなのだから。千反田は折木の発話を、1日のなかの時間の流れではなく、そうしたまさに黄昏ゆく我々の歴史、今まさに夜に足を踏み入れんとする我々の歴史という時間軸のなかにあえて強引に読み替えて、それに対置する形で春の予感を告げたのだ。

 歴史の後知恵でもはや必然となった破局を予告してみせた探偵の居場所はそこにはなく、ただ希望を決して捨てない依頼人がいるのであり、たぶん我々は、すべてを見通す探偵になれなくとも、祈りつつ春を待つ依頼人であることをやめてはならないのだと思う。だから、千反田えるは、肌寒い夜の足音を聞きつつも、彼にむかって春の予感を告げねばならなかったのだ。

 

 

 

 

探偵小説の社会学

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  個人誌、探偵論を全然あれできないまま書いたのがやや心残りではあって、リベンジの機会をうかがっています。

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  「愚者のエンドロール」編を思い起こすならば、折木はおそらくホームズを読んでいるだろうし、千反田もまたミステリーというジャンルを好ましいとは思えないと気付くくらいには読んでいるのだから、上のやりとりは(当人たちにとってすら)(無)意識的なホームズの引用である、という読みは可能かもしれないけれど、彼らはそのようにしてフィクションを引用するような人間として立ち現れているわけではないと思うので、まあ、ちょっとあれでしょう。

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*1:米澤穂信『遠まわりする雛』、p.408

*2:もちろんこれは順序が逆で、折木と千反田の歩幅のずれがこの結末に内在していることを、『リズと青い鳥』に教えられたというか、『リズと青い鳥』がなければこういうふうには言葉にできなかったのだけど。

*3:高山宏訳「最後の挨拶」小池滋監訳『シャーロック・ホームズ全集10』ちくま文庫、pp.357-8