あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

オタクが性別を超越しているとか、性別から逃げてるだけじゃないの?

【告知】

2013/3/30にTM2501氏らと座談会Ust中継を行います。詳細は今月の30日にTM2501さんなどを招いてUst中継をやります - 斜め上から目線をごらんください。皆様のご視聴・コメントお待ちしています!

ちょっと前になるが、こんな記事がインターネット上で話題になったことがあった。
オタクの女の子になりたい願望は性別を超える - 狐の王国
これに対しては同意しながら補足する意見が提示される一方で、真っ向から反論する意見も提示された。
僕は「時々」ネコになりたい - 情報の海の漂流者
“かわいいい女の子になりたい”くらいで、安易に“性別を超越した”なんていうもんじゃないよ。 - 想像力はベッドルームと路上から
そして、この記事を読んだ当時僕はこんなツイートをしている。

ただ、このツイートだけでは意味がわからない人がほとんどだろうと思う。今回の記事では、このツイートで一体何を僕が言いたかったのか、元記事の一体何に僕がむかついたかを説明していく。

概要

この記事では、まず「男性」「女性」が社会的に強いられる立場の違い、いわゆるジェンダーバイアスとはいかなるものなのかということを考え、それが確信的には「選ぶ性」「選ばれる性」の違いとして言い表せることを示す。
次に、では男性オタク向け作品がそのようなジェンダーバイアスを超越した存在になっているかを考えていく。そして「戦闘美少女作品」も「女の子だけが登場する作品」も、そのいずれに対する消費も性別を超越なんかしておらず、むしろばりばりに「選ぶ性」という男性ジェンダーに基づいているということを明らかにする。
そして最後に、そのような状況において「オタクは性別を超越した」なんて言うことは、女性に二重役割を押し付ける最悪の言い訳であることを示し、性別を超越するということは、「自分の性別の役割をほっぽり投げる」ことではなく、「それぞれの性別の役割を分かち合い、引き受ける」ことからしか生まれないということを主張する
しかし、僕がこの記事にむかついた核心は、実は一言でこう言い表せる。「男性という『選ぶ性』の立場を保持しながらかわいいに逃げこむなんて、虫がいいにも程が有る!」ということなのである。

「選ぶ性」と「選ばれる性」

まず、そもそも「女の子」と、それに対応するカテゴリである「男の子」は一体何が違い、非対称なのか。個別に上げれば様々なジェンダーバイアスが挙げられるだろう。だが、そのジェンダーバイアスの多くに共通する点を挙げるならば、それは「選ぶ立場」であるか、「選ばれる立場」であるかという点における違いであると言える。このことは、昔話題になった「ねるとん」や「ラブワゴン」といった恋愛をテーマにした人気バラエティの多くが、男性が告白し女性がそれを受けるという構図であったことからも、納得されると思う。そしてこの違いこそが、マンガやアニメといったサブカルチャーにおいてはとても重要だ。
例えば恋愛物語の多くにおいて、告白する側は男性であり、女性は告白を受ける側である。そして女性はそのことを当然のものと考えるからこそ、化粧やファッションといったものを重要視する。化粧やファッションといったものをテーマにした少女漫画や少女向けアニメのなんと多いことか!
一方男性においては、そういう化粧やファッションといった行為の多くはそれほど重要視されない。もちろん、男性にとってもモテるという問題は重要であるため、その為に努力をする行為が描かれることはあるが、しかし少女漫画に比べればその「モテるための努力」への評価は圧倒的に否定的だ。例えば、モテるために主人公がバスケやサッカーなどのスポーツをするという展開が物語の最初にあったとしても、その動機は物語が進むごとに否定、あるいは忘却され、「スポーツをすること自体の魅力」にとりつかれるというのが、少年漫画の王道展開である。
このことは、オタクに人気があるとされる、複数の異性から恋愛感情を持たれることによって進む物語、いわゆる「ハーレムラブコメ」においても同じだ。女性の逆ハーレム作品においては、殆どの物語において、女性はとにかく一方的に告白“される”存在である。もちろん、その沢山の告白があった後に、主人公はその中から一つを選び告白を受けるわけだが、しかしそれはあくまでも基盤において選ばれることを前提にしてしか成立し得ない選択なのである。
一方、男性向けハーレム作品においては、複数の女性から求愛を受けている作品もあり、そのような作品においては一見するとジェンダーの逆転が見られるように思えるかもしれない。だが、そのような作品のクライマックスの多くは、そのいろどりみどりの女性の中から、自分が本当に好きな女性を選び、その子に告白することによってクライマックスを迎えるのである。だからこそ、このような構図に従わず、自分から告白してクライマックスを迎えようとする女の子は、突然の強風や騒音、主人公の難聴体質などにより、その作品世界によって制裁を受けるのである。
もちろん、これらはあくまで多くの作品に共通する、しかもかなり古典的なパターンを述べたのであって、個々の作品にはこのようなジェンダーバイアスに抵抗しようとする作品もあるだろう。だが、この節ではまず典型的なジェンダーバイアスの存在を確認することにする。元々の記事においても、このような、男性に能動性が求められ、女性に受動性が求められるという、ジェンダーバイアスが存在していたという事自体は認めている。それをより突き詰めて、根本的な違いを考えると、「選ぶ性」「選ばれる性」ということになるのだ。重要なのは、ではそれが近年のオタク向け作品においては覆されつつあるのか否か、である。

女性を欲望を充足する手段として選別しながら「超越」なんてのたまう愚劣

まず、元記事の筆者は、ガンダムの女性キャラが「強い女性」であると例示することにより、ジェンダーバイアスにオタクはもう飽きていると主張している。

大ヒットしたアニメ「けいおん!」に代表される「女の子しか出てこない」アニメはこうした古い視点から「男に都合がいい理想化された女の子しかでてこない」と考えてる人たちも少なくないのだが、実はまったく違う。オタクは誰よりもたくさんのアニメを見てるので、そんなありきたりなヒロインにはとっくに飽きてるのだ。

結果、アニメのヒロインたちはかなり昔から自立的で男性を頼らない存在として描かれてきた。かの「機動戦士ガンダム」に登場するヒロインたちも、気が強くて凛々しく正しいセイラさん、軍人として命をかけ主人公たちを導くマチルダさん、おろかではかなくも弟妹を守るために必死で働くミハルと、「男に守られる存在」などどこにも見当たらなかった。これは1979年の作品である。

そして何より時代の変化だ。今の時代は男性から男性性をスポイルするようにできている。団塊世代のように(性差別の結果として)男性の収入が高かったり就職機会に恵まれたりもしてない。筋力や体格の大きさは知識労働者の間では利点にならない。男性が男性というだけで有利だった時代は、制度や偏見を除けばほぼ終了を見ている。女性のほうが有利に立ち回れると考えてる人も少なくないのではないか。

そもそも、元記事では何故かガンダムの物語上一番重要である*1、シャアとアムロという二大主人公の確執の原因ともなった女性キャラ、「ララァ」が触れられていないということに違和感を持つが、そのことはまぁ脇においておこう。ララァもまぁ戦う女性ではあったし。そしてそのような戦う女性が好かれるようになった理由には、確かにid:KoshianX氏が言うように時代の変化があるのかもしれない。
だが、前節で示したことを読んだ人ならば、このような違いが何も根本的なジェンダーバイアスを否定しないことは簡単に分かるだろう。男性が選ぶ女性のタイプが「か弱い守りたくなるような女の子」から「強く凛々しい女の子」になったとしても、男性が「選ぶ性」であることは全く変わってないのである。例えるならば、男性に好まれるメイクが美白メイクからナチュラルメイクに変わったようなものだ。美白メイクがナチュラルメイクに変わったひとで「ジェンダーバイアスがなくなった!」なんてことを言う馬鹿が居ますか?しかしこの記事はそれと全く同じ事を主張しているのである。
そのことは、次に示す引用からもはっきりと分かる。

そして「守ってあげたくなるヒロイン」は人気が落ちてきてしまった。守るだけの力も自信もない男性から見れば、「守ってあげなくてはならない女性」など邪魔でうざったい存在でしかない。むしろこっちが守って欲しいくらいだという叫びすら聞こえそうだ。

自分が選ぶ側であることに何の疑問も抱かずに「『守ってあげなくてはならない女性』など邪魔でうざったい存在でしかない」などとぬかすこの傲慢!これで元記事の筆者は「性別を超越してる」?!ヘソで茶が沸かせるわ!

「主人公に自己投影する」オタクから「直接女の子を消費する」オタクへ

そして元記事の筆者であるid:KoshianX氏は、こういう素っ頓狂な寝言を吐きながら、次に近年の作品においては男性キャラの存在が極めて少なく、場合によってはゼロなことを挙げて、男性は男性としての自己アイデンティティをなくし、「女の子」と同一化していると主張している。

「リボンの騎士」「キューティーハニー」といった古典に由来し、「美少女戦士セーラームーン」に端を発する「戦闘美少女」というジャンルも、こうした背景を考えると彼女たちの異常な強さ、男性キャラクターの少なさも納得がいく。男性はよほど強い人物でなければ物語に参加することすら許されないのだ。

こうしてオタクたちの心は、「かわいい女の子と付き合いたい」から「かわいい女の子を見ていたい」に変わり、「かわいい女の子たちがキャッキャウフフしてるのを見ていたい」を経て「かわいい女の子たちのキャッキャウフフに混ざりたい」へと変化していったのではなかろうか。

そうした需要をつかんだ「けいおん!」という作品は、監督からして女性である。放課後のお茶とお菓子、とめどないおしゃべり、いつも一緒の仲良しグループ。これらはそもそもが女性たち自身の理想形の一つではなかったか。

「かわいい女の子になりたい」と願うのは、まず女性自身である。それがジェンダー抑圧の結果だとしても、その願いが存在することは無視できない。そして男性に頼れなくなった時代を背景にした強さへの欲求。強さとかわいらしさの同居。セーラームーンやプリキュアの人気の背景はそこではないか。

そしてここにオタクと女性の理想の一致が見られたのである(現実には相容れないとしても)。

この物語からの男性キャラの消滅という傾向自体は確かに近年現れてきた変化であるように思える。だが、そのような変化をもって、果たして「男性が女性に同一化している」なんて結論に至っていいのだろうか?
僕はそうは思わない。この現象はもっと簡単に説明できる。それは「男性オタクが、作品内に自分を投影するキャラクターを見出さなくても、画面の外から直接女の子を選び、欲情する(オタク用語を使えば『ブヒる』)ことができるリテラシーを手に入れた」ということである。

画面の向こう側が地続きになった現代

元々、メディアの外と内という境界は、少なくとも人間の認識の上では極めてあやふやなものなのである。例えば、リュミエール兄弟が始めて映画を発明し上映した19世紀終盤においては、映画で起きていることはその場でおきていることと錯覚され、映画の中で蒸気機関車が登場し画面に近づいてくると、観客たちが本当に蒸気機関車が来ると思ってその場から逃げ出すというようなことがあったという*2。だが、映画がより多く作られ、人々がそれを見ることによって、観客の中には自然と「映画の中で描かれることは作りものであり、現実ではない」というお約束が、リテラシーとして形成されていった。
だが一方で、そのリテラシーは逆に作品への没入を阻む壁ともなる。映画の中の出来事が所詮ただの作り事ならば、それの何にワクワクドキドキしたり、あるいは感動したりすればいいのかと。そこで必要になってくるのが、自分が自己を投影する存在である。例えばラブコメ作品で言うならば、ラブコメ作品に出てくる女の子に直接欲情するのではなく、そのラブコメ作品で主人公になっている男の子に自分を投影させて、その男の子が経験していることを自分が経験していると思うこむことによって欲情する。そのような欲情の迂回が必要であり、男性キャラクターとはそのための装置だったのだ。
ところが、1980年代頃から、このような装置が必要とされる前提条件である映像の外と内の壁、この頃になると作品の多くはブラウン管や液晶によって視聴されるようになるから、オタク風に「画面の壁」と言える、その壁が、崩壊していく。と言っても別に攻殻機動隊とかマトリックスみたいに電脳によって画面の中に入り込めるようになったとかいう話ではない。「メタネタ」「オタクネタ」の登場だ。
メタネタとは、作品に登場するキャラクターが、自分が作品の登場人物であるということを自覚して発言するような行為を言う。例えば、週刊少年ジャンプに連載されている『銀魂』では、登場人物たちがジャンプ誌上で行われた人気投票を自覚し、より上の順位に行くために自分より上の順位のキャラクターの順位を下げようとするといったエピソードが繰り広げられたことがあった。これは典型的なメタネタであると言える。

このようなメタネタは、作品自体が、読者・視聴者の楽しみのための虚構であることを認めてしまう。しかし、それをキャラクター自身が認めてしまうことにより、読者・視聴者は、そのキャラクターがあたかも自分たちと同じ現実の地平にいるかのように錯覚してしまうのである。
そして次にオタクネタ。80年代からオタクがクリエイターとして制作現場に入り込んでくると、そのオタクが好きこのんでいるようなものがそのまま作品に登場してくるというような作品が多く見られるようになった。そして90年代になってくると、デ・ジ・キャラットやげんしけん、らき☆すたなどのようにオタクが物語の主人公であるような作品が生まれてきた。このようなオタクネタは、オタクという視聴者に、まるでそれらの作品のキャラクターが現実と同じ空間にいるように思い込ませるのである。そしてオタクネタが用いられる作品においては往々にしてメタネタも併用され(まさしく銀魂なんかはその典型)、相乗効果により、画面の壁を打ち破るのである。
そして更に言うならば、このような変化の背景には、人間の生息環境自体がメディア化されてきたという点があげられる。情報機器の進展により、人々は確実に昔の時代よりも多くメディアに接して暮らすことが多くなり、メディアというものが自分の日常に占める割合・重要度も格段に上昇していった。メディアに接触するということがまだ非日常的な時代においては、メディアを通じて得られる情報は特殊なものであり、現実の基盤はメディアではなく対面から摂取するものにあるということが所与の前提だった。だが、現代の私たちの生活においては、むしろメディアから摂取する情報から知る「現実」の方が、対面によって摂取する「現実」の情報より明らかに多くなっている。このような環境においては、もはや現実の基盤は対面ではなくメディアにあるといって言い。そして、メディアによって受け取る「現実」「非現実」の情報は、もはや質的には違いがなく、ただそれが「現実」とラベリングされているか「非現実」とラベリングされているかの違いにすぎない。飛行機が突っ込みビルが倒壊している映像がテレビで流れた時、それが「現実」か「非現実」かを見分ける手段は、それがニュースステーションの時間にやっているか日曜洋画劇場の時間にやっているかの違いにすぎないのである。
このような変化の背景を前提とし、そしてそれと期を同じくしてサブカルチャーの作品の方向性が変わっていくことにより、画面の壁は打ち崩された。そしてそれにより、オタクの視聴者・読者は、男性キャラクターという装置を用いなくても、直接女の子のキャラクターを眺め、そしてそれにブヒれるリテラシーを手に入れたのである。

男性キャラクターを暴力的に排除することによって維持される「女郎部屋」型作品消費

だが当然ながら、男性キャラクターを迂回させようが、画面のこっち側から直接であろうが、結局男性が「選ぶ性」という立場から、画面の向こう側の女の子を選んでいることには変わりない。そのことは、逆説的かもしれないが、そのような男性オタク向け作品において男性キャラクターが極めてデリケートな形でしか存在できないことから証明できる。
例えば、「みなみけ おかわり 」というマンガを原作にしたアニメ作品においては、フユキというアニメオリジナルの男性キャラクターが極めて嫌われている。

みなみけには他に男性キャラクターが多く登場するのになぜフユキだけとことん嫌われているか?それは、フユキというキャラクターが視聴者の「選ぶ性」を横取りして、みなみけに登場するメインの女の子たちと良い関係になろうとしたからである。『みなみけ』という漫画作品は、現代の男性オタクの消費方法に極めて注意を払っている作品で、男性キャラクターが登場しても、その男性キャラクターと女の子の間で、許容ラインを超えるほどのいい関係にはならない。ところが、このフユキというキャラクターはその許容ラインを軽々と乗り越えた。しかしじゃあ感情移入したくなるような魅力があるキャラクターであるかというとそうでもない。そんなわけで、フユキというキャラクターはまさしくみなみけという作品を汚した不純物として、忌み嫌われているのである。同様の例は、例えば「アイドルマスター2」という、アイドルマスターというゲームの続編が発表された時に、「ジュピター」という男性キャラクターのアイドルユニットが告知された時に起きた反発などが挙げられる。この時なぜジュピターというキャラクターが嫌われたかといえば、それはジュピターという存在がカッコイイ男性キャラとして描かれ、アイドルマスターを遊ぶ男性キャラクターの「選ぶ性」を奪い、アイドルの女の子を奪い選びとってしまうのではないかということが恐れられたからである(実際は、ジュピターというキャラクターはまぬけで、アイドルの女の子を奪い取ることなんか出来ない、いわば“去勢”されたキャラクターであることが分かり、ジュピターへの反発は収束した)。かくも現代の男性オタク向け作品において、男性キャラクターが存在することはデリケートな問題となっているのである。現代の男性オタク向け作品において男性キャラクターがヒールではない形で成立するには、『ゼロの使い魔』の才人や『とある魔術の禁書目録』の上条さん、あるいはテレビアニメ版『アイドルマスター』のプロデューサーみたいに、「男が惚れる男」として男性が自己投影したくなるような魅力を兼ね備えるか、あるいは『ハヤテのごとく!』の綾崎ハヤテ=綾崎ハーマイオニーや『GJ部』のキョロ=キョロ子のように、女装した姿がむしろ本物とまで言われるくらいに、「男が萌える男」として成立しなくてはならないのである。
ガガガ文庫 GJ部(イラスト完全版)
小学館 (2012-10-19)
売り上げランキング: 225
つまり、現代の男性オタク向け作品に多く見られるような「女の子しか登場しない作品」というのは、決して現代の男性オタクが性別を超越していることを示さないのである。むしろ反対に、そういう作品において、不純物となりうる男性キャラクターが排除されるのは、男性が「選ぶ性」であり続けられるというジェンダーバイアスが強固に存在し続けていることの証左であり、「選ぶ性」という男性性への固執がより露骨になったことの表れであるとさえいえるのだ。なぜなら、以前までは男性キャラクターという装置を迂回することによって誤魔化されていた欲情が、ダイレクトにその女の子のキャラクターに向けられるようになったのだから。

「選ぶ性」であることの責任

しかし、もしそれだけだったら、この元記事は度し難い間違いをドヤ顔で書き綴っている記事であるとは言えるが、しかしムカツクほど腹が立つということにはならないだろう。僕が腹が立つのは、この「オタクは性別を超越している」という言い訳が、実際は男性オタクが、「選ぶ性」であることによって当然背負わなければならない責任を、回避する言い訳となっているということなのだ。
今まで述べてきたように、現代のオタク向け作品以前は、「選ぶ性」というものはその作品に登場する男性主人公に仮託されていた。そのような作品でありながら、しかし80年代において、「メタネタ」「オタクネタ」を盛り込んだ傑作アニメがひとつある。そう、皆様とっくにお分かりだろう。『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』である。

うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー [DVD]
東宝ビデオ (2002-09-21)
売り上げランキング: 6,185
*3
この作品において、主人公の諸星あたるは、学園祭前日が何回も何回もやってくる不思議な世界に、主要キャラクターたちとともに迷いこむ。詳しいストーリーは、見ていない人にはネタバレになるし、見ている人には今更なことなので説明しないが、そのループの根本原因は、ずっと「選ぶ」ことを先延ばしにしてきた、諸星あたるであった。そして、そのループの中で、諸星あたるは最後において「選ぶ」。そして、諸星あたるはヒロインにこう言われるのである。

「責任取ってね」

そう、「選ぶ性」であるということは、実はそれに付随して、選ぶことによる責任をも引き受けることなのである。そして、この責任を取ることの重要さが、ビューティフル・ドリーマーの幻想的で美しい描写とは打って変わって、リアリスティックな凄惨によって示される作品に、「School Days」というものがある。

この作品はマルチエンディングであり、ストーリーにも色々分岐があるのだが、そのストーリーの殆どで描かれるのが、「選ぶ性」でありながら、選ぶことの責任を放棄し続けることが、如何に罪悪であり、どのような報いを受けなければならないことなのか、ということだ。選択肢によって分岐が生じることにより、ゲームのプレイヤーは選ぶことを強いられる。しかしゲームの主人公はその選んだことによる帰結への責任をほぼ取らない。その結果女の子は病み、殺し合い、そして凄惨な結末を迎える。
この作品については、よく主人公の伊藤誠の異常さが全ての悲惨の原因であるとして、主人公への憎しみがぶつけられ、「誠死ね」なんてことが言われたりする。だが、僕に言わせれば、伊藤誠という存在は、確かにカリカチュアされてはいるが、現代の「選ぶ性」であることを、他の男性キャラクターを排除することにより温存しながら、その選んだことの責任を取ろうとはしない、僕を含めた現代の男性オタクの典型例であるとしか思えないのだ。恋をする自由もないような閉ざされた空間に女の子たちを閉じ込め、そしてその空間をまるで女郎屋のショーウィンドウを眺めるように物色しながら「僕はこの子萌え~」とか言って選んで、そのくせ責任をとって物語を終わらせずに物語をループさせる。そんな現代男性オタクの消費形態が、カリカチュア化されることによって逆に如実に現れたのが、「School Days」という作品の物語であると、僕は考える。

日常系アニメはいかにして男性オタクによって汚されたか

しかし現代の男性オタクは、そのような悲惨を自分たち、そう、僕たちの問題とは決して捉えようとせずに、「現代の男性オタクは性別を超越した!」などといって目をそらそうとする。そして、その逃避を完遂し、更にそこで「ぼくちん弱くて戦いたくないから女の子代わりに戦って~。強い、けど女の子らしい女の子をぼくちゃん選んであげるから~」という下劣な欲望を加味することによって生まれたのが、「魔法少女まどか☆マギカ」という、醜悪アンドグロテスクアンド醜悪な物語である。この作品はほんと何度も何度も何度も罵倒して来ましたが*4、今回も罵倒する。

らき☆すた、けいおんなどに代表されるような日常系アニメは隆盛を極めた。僕は、その事自体は否定しない。むしろ非日常的な冒険でしか物語が描けないような作品にうんざりする中で、日常系作品は確かに面白かったし、日常系作品に救われた面もあった。
しかしその一方で、これら日常系作品について、自らのジェンダーに絡めた賞賛の言葉を吐く男性オタクには激しい違和感を覚えていた。というのも、日常系作品は別に男性ジェンダーの為に作られたわけでもないし、また作品の構造もそういう問題に対応するようなものではなかったからだ。男性ジェンダーの問題について考えたいのなら、同時代の『コードギアス』『デスノート』『神のみぞ知るセカイ』のような作品がむしろ適任だっただろう*5。だが、けいおんにこのような男性ジェンダーの問題を解決する力が存在すると考える人々が居た。まさしく、今回の記事で取り上げたような「日常系作品によって僕たちは男性ジェンダーを超越し、それを解消することができる!」とか言い垂れる連中だ。
だが、これは明らかに欺瞞だった。なぜなら日常系作品の多くは、女性のみの空間に限定してフォーカスを合わせることによって、男性ジェンダーが果たすべきとされる男性役割の領域のことを省いていたからである。例えば、そのほんわか日常空間を維持するコストは一体誰が支払っているのか。そのほんわか日常空間に侵入し破壊しようとする非社会的存在を追い払っているのは一体だれなのか。そういった問題の多くは、日常系作品はオミットしていた。
何度も言うが、そのオミットしていた事自体は悪いことでもなんでもない。むしろ、そういう問題に関わるのような世界とは違う日常空間が私たちの周りにもあるということを、強調して示すのが日常系作品なのですから。そういう日常空間もまたあると気づかせるという点に留まっていれば、日常系作品は私達の生活をより実りあるものにしてくれる。
ところが、そこで本来オミットされるべき問題まで、日常系作品で解決しようとする糞野郎どもが出てきたのだ。そのような現れが最初に現れてきたのは、いわゆる「蛸壷屋同人」だといえる。蛸壷屋同人は、日常系がオミットしてきた問題を日常系作品に持ち込むことによって、ほんわか日常空間を破綻させた。だが、この作品においてはまだ破綻はきちんと、読者が目を背けたくなるような破綻として扱われていたといえるだろう。
しかし、魔法少女まどか☆マギカという作品においては、その破綻を極めてグロテスクに隠蔽したのである。
まず、魔法少女まどか☆マギカという作品は明らかに、「日常系作品にその作品がオミットした問題を飲み込ませることによってほんわか日常空間を破壊する」ということを目的として作られた。もちろん、その標的となった日常系作品とは『ひだまりスケッチ』である。ひだまりスケッチのような日常系作品において、しかしそういう作品において排除されるような非社会的存在として「魔女」は生まれ、そしてそういう日常空間を維持するコストとして「エントロピー」という問題が示され、それらの問題により日常空間が破壊されるというのが、まどマギ前半から中盤のシナリオといえよう。
もちろんそれだけでも最悪なのだが、このまどマギという作品の更に愚劣なところは、そういう問題を最終的に、女の子の女性性によって解決してしまったことである。女神となり自分の身を犠牲にして世界を救う。今まで普通に日常を送ってきた女の子にである!むしろ、そうやって日常空間を甘受してきたことへの責任がその女の子にあるように偽装しなければならなかったから、そういうごく普通の女の子にその「女の子性によって世界を救う」ということが押し付けられたのだろう。
しかし、僕は声を大にして言いたい。そんなことを君たちが全部背負う必要はなかったと。それは本来、僕達「男の子」が対処すべき問題だったんだから。男の子は「選ぶ性」として女の子たちを囲い込む。しかしその代わりに男の子はその囲い込みの外からやってくる敵に立ち向かっていく。それが、旧来のマンガやうアニメといったサブカルチャーにおける性別役割分業であり、男の子たちの責任のとり方だったのだ。しかし現代の男性オタクはもはやその責任を取らずに免罪され、本来は責任を取ることによって初めて得られるはずだった「選ぶ性」という果実を収奪する。その結果現代の女の子キャラクターたちは、女の子的な「選ばれる性」として眼差しを受け、「マミ先輩豆腐メンタルwwwwww」とか「さやカスwwwwww」なんていう嘲笑を浴びながら、更に本来男の子の役割であった「戦いの犠牲になること」という役割まで背負わされる、二重役割を背負わされているのである。これが、「オタクは性別を超越した!」などという言い訳に覆い隠された、男性オタクの真実なのである!

「性別を超越」とは「性別から自由になる」ことでなく、「性別を分かち合う」こと

もちろんだからといって旧来の性別役割分業にそのまま戻るべきであるということを僕は主張したいのではない。というか僕自身それは一番嫌だ。僕は戦いたくないし、ほんわか日常空間で暮らしていたい。「男の子なんだから戦いなさい!」なんて言われるのは真っ平御免だ。こちとらこう見えたって昭和62年の生まれだぜ! 人から言われて戦争なんかできるかよ!と、声を大にして言いたい。
だけれど、だからといって女の子に戦うことを押し付けるのはやっぱりおかしいのだ。包帯まみれの綾波レイが呻いていれば、例え乗りたくなくても、(逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ)と心のなかで呟きながら「やります、僕が乗ります!」と叫んでしまうのも、やっぱり男の子なのである。
だから必要なのは、男性役割から逃げることではない。そうでなく、「男の子」として、男性役割の糞ったれさと向き合いながら、なんとかそのクソッタレさを少しマシにしていき、さらに、それを女の子に一方的に押し付けるのではなく、女の子と分け合おうとすることなのである。
(実はその「分かち合うこと」を抽象的に描いていたのが『輪るピングドラム』だったんではないかと今思いついた。ただ、それならその分かち合いの輪を兄妹に限定せずもっと広くしてほしかったが。)
そして、その過程では、当然男の子も「選ぶ性」という特権を放棄し、双方が共に「選び、選ばれるもの」となることを受け入れなきゃならないはずだ。具体的に言うならば、『かんなぎ』でナギに彼氏がいようがDVDを割ったりするのをやめることであったり、アイドルや声優に彼氏ができたり結婚しようが心温かく祝福することである。また、自分たちが消費される存在になることも受け入れるということ、「腐女子が介入するからジャンプはつまらない」なんてことを言わないことも重要だろう。

TOxxxIC
TOxxxIC
posted with amazlet at 13.03.25
Universal Music LLC (2013-02-20)
ただ、そういう風にしても、やはり男性役割は半分は背負わなきゃならない。「性別を超越」するっていうことは、「性別(役割)から自由になる」ことではなく、「異なる性別(役割)も、自分の性別(役割)とともに引き受ける」ことなのだ。*6それは、「男の特権は捨てる気はないけど女の子になりたい!」なんて無責任な言葉からは決して生まれない。自分が男であるという、このクソッタレな現状認識から出発して、それを男の子として引き受け、なんとかしていく。異なる他者と出会った時に、戦う以外の道がないが自分が探ってみるとか、そういう、引き受ける態度から、生まれるのである。

【告知】

2013/3/30にid:TM2501氏らと座談会Ust中継を行います。詳細は今月の30日にTM2501さんなどを招いてUst中継をやります - 斜め上から目線をごらんください。座談会ではAKBとか会田誠の問題とかについて話すということで、今回の記事と関連する話も出てくるかもしれません(というか多分出てくる)。この記事を読んで、少しでも面白いなと思ったり、またはその反対にこの記事はおかしい!記事を書いたあままこに突っ込みたいことなどがある場合は、ぜひUstを見て、コメントしてみてください。皆様のご視聴・コメントお待ちしています!

*1:と僕は思っている

*2:[http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%AA%E3%82%BF%E9%A7%85%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%88%97%E8%BB%8A%E3%81%AE%E5%88%B0%E7%9D%80:title]ただ、今記事を読んでいるとこれには異論もあるみたいだ。まぁ、確かによく出来過ぎている話ではある

*3:僕は一体あと何度この作品へのリンクをこのブログに貼るのだろう……

*4:[http://d.hatena.ne.jp/amamako/20121010/1349834149:title]に、行なってきた罵倒の一覧があります

*5:そういった作品が提示する方向性に賛同するかはまた別

*6:ジェンダーフリーという言葉が最近フェミニズムの界隈で再検討の対象になっているのって、こういうことなんだろうか。こんなこと言ったら十中八九本物のフェミニストから怒られそうだけど