少し前の新聞記事になりますが、18歳選挙権を通じ、主権者教育とは何か、政治的中立とは何かなど、この記事を見ながらつれづれに感じた事を綴ってみました
この問題についてはもういくつか続きのエントリ-を書きたいと思っています
中日新聞夕刊 2015/6/17
「主権者教育」課題 学校現場戸惑いも
選挙権年齢引き下げについて、有権者の意識を育てる「主権者教育」を施す立場の教育者からは、若者の政治への関心が高まると前向きにとらえる声の一方で。指導の在り方をめぐる不安も聞かれた。
政治学が専門の森正・愛知学院大学教授は、二十歳前後の学生と接する中で「高校までの授業では、主権者教育が十分でなかった」と感じてきたという。「十八歳はまだ早いという人もいるが、そういう教育をしてこなかった大人の責任だ」と指摘した。
「教育現場に政治的中立性を求めるあまり、制作過程を扱わずに制度だけを教える教育になっていた。過度に非政治的で、高校までの授業と現実の課題がつながらず、新聞も読まない」と現状を嘆く。
森教授は現代史の講義でも安保体制など現在の課題を取り上げ、その経緯をひもとくように歴史をさかのぼる手法を取り入れてきた。「現実の政治を知ることが新聞を読み、政策を考え、選挙に行く若者につながると思う」から。今回の引き下げが「主権者教育を小学校から見直すいいきっかけになる」と期待する。
文部科学省は、主権者教育を推進するための高校生向けの副教材を作成中。早ければ秋にも配布する方針のようだが、学校現場ではどのように授業を行うか手探りの状態だ。
愛知県安城市の安城学園高校の社会科教諭山盛洋介さん(35)は「授業内容について文科省の指針がまだ示されておらず、戸惑いが大きい」と漏らす。「政党の名前を挙げたり、改憲など世論を二分するような問題を取り上げたりすること自体が『政治的』と見なされないか心配」と懸念を示しつつ、「日本では戦後ようやく男女が平等に投票できる選挙が実現した歴史なども教え、一票を投じる尊さを伝えたい」と話す。
「主権者教育」って、主権者として政治に主体的に関わっていく素養を個人の中に育てる、という意味の言葉なのでしょうが、なんだか会社の「新人研修教育」みたいな感じがして、個人的にはあまり好きではないです。なんとなく子供達がこの教育の受動的な客体みたいで・・・(^^;
でも最近普通に使われているようですし、そんなにこだわる気も今の所ないので、ここでも使うことにしましょう。大事なのは中身です。
『二十歳前後の学生と接する中で「高校までの授業では、主権者教育が十分でなかった」と感じてきた』
~そりゃそうでしょう、
『教育現場に政治的中立性を求めるあまり、制作過程を扱わずに制度だけを教える教育になっていた』んですから、政治に主体的に関わっていく力など育っていなくて当然です。
学校のテストや受験勉強に備えて制度を暗記するだけでは、政治を主体的に考える素養など育つはずがありません
主体的に考えることがまさに主権者のあるべき姿なわけで、その政治的センスを養うのが主権者教育のはずです
実際の政治問題をとりあげないでどうやって自らの政治的センスを養うのでしょう?
実際の問題を取り扱わないのだから、
『過度に非政治的で、高校までの授業と現実の課題がつながらず、新聞も読まない』のも当然です。
自民党は、高校までの授業と現実の課題を繋げて考えて欲しくないのです。
例えば、授業で裁判の仕組みを習って知識としては知っていても、予断排除の法則から逮捕段階で有罪の予断を抱かせるマスコミの印象報道の問題を考えるとか、代用監獄や冤罪の実態、という現実の課題に繋げたら、現状に対する批判が子供達の中で起こるのは必至です。
だから現実とは繋がらない机の上の知識にとどまってて欲しい。
自民党はそういう主権者を欲しがってきましたし、これからもそうでしょう。
実際の政治の制作過程を扱わない、というのは今政治が何をしようとしてるかを知らせるな、批判させるな、「由らしむべし知らしむべからず」と一緒です。こんな教育は「政治的中立」でも何でもないのですが、「政治的中立」についてはまた別エントリ-で書きたいと思います。
「十八歳ではまだ早すぎる」っていう考えも日本では珍しくないと思いますが、これ、スゴイですよね
人間は政治的社会的存在です。人は生まれた瞬間から政治や社会とは無関係に生きてはこれません。赤ん坊の時に受ける様々な無料の予防接種一つとってみても、政治の結果です
ですから、今現在の政治を見て、それに対する自分の政治的意見を養い発表するという教育は、民主主義国家ではむしろ子供の頃からなされるべきだし、そういう教育を受けるのは子どもの権利だと言えるでしょう
それをするな、というのは、子どもの権利を侵害していると思います。
アメリカのとある地方議会では傍聴する小学生でも発言ができるし、コスタリカでは本当の選挙と並行して子供達による模擬選挙も行われるし、スウェーデンでは小学校の内から民主主義とは何かという教育が始まり、実際に議会を傍聴したり選挙時の対話集会で発言したりする、ということを過去のエントリ-でご紹介してきました。
そういう教育を受けてきた彼らは、家庭でもパブでも政治が人々の話題になるのは普通のことです。芸能人だって平気で自分の政治的意見を表明します。
でも、日本では政治の話題はタブーで嫌がられますよね。これ、海外から見ると不思議なんだそうです
是非こちらのブログもご一読ください
<杉並からの情報発信です>
●
フランスの高校生や大学生はなぜ政治・社会問題に敏感に反応するのか?http://blog.goo.ne.jp/yampr7/e/cc7be4911489f50ecc18141883cdb057選挙権があろうがなかろうが、子供の頃から日常的に実際の政治に関わり自由に自分の意見を形成していく経験を通してしか、民主主義社会における主権者としての素養は育たないでしょう
それなのに、大人直前の18歳まで政治に触らせない不思議
私もつい最近知ったのですが、なんと、もう随分前に文科省から、高校生が政治に関わるのは教育上不適切とする通達が出されてたようです
●「46年ぶり改正の文科省通達」にみる若者が政治に関らない理由 huffpost
http://www.huffingtonpost.jp/tatsuhei-morozumi/18-election_b_7528218.html
(引用開始)
戦後日本の青少年教育は若者を「問題の対象」として扱い、保護と取締りの対象つまり、社会に参入させられる「受動的主体」とされてきました。それ故に「上から目線」の通達だった、と考えることができます
(略)
広田教授は、「AKBには熱狂するけども、投票には行かない。」と現在の若者を憂い、若者の政治的無関心や、投票率の低さのひとつに原因に、これまでの大人社会が「若者を政治から遠ざけてきた」ことを指摘しています※。その例に戦後青少年史の3つの出来事を提示しています
昭和 29 年には、当時の東西冷戦の激化を背景に、義務教育諸学校における政治的中立に関する2つの法律が成立した。
昭和35年には、 60年安保の盛り上がりを背景に、高校の生徒会が学校外の問題を扱うことを不適切とみなす文部事務次官通達が出された。
学園紛争が激化した昭和 44 年(1969年)には、高校生が個人として政治的な活動に関わることを望ましくないとみなす文部省初等中等局長通知が出された。
(3つ目の通達は文部科学省のこちらのホームページから読むことができます。)
東西冷戦、60年安保、学園紛争の激化など当時の社会的文脈を反映して、これらの通達が出されたわけです。100っぽ譲ってそれはありだとしたら、ではそれから46年間は義務教育過程における政治教育については放置していたわけでしょうか。政治を教育に持ち込むことがタブーとされていた学校のもとで、義務教育過程を修了した人口はどれだけいるのでしょうか。政治を扱わない義務教育過程で育った大人や教師の元で育った子どもは、今の若者たちではないでしょうか。その結果が今日の現状ではないでしょうか。
(引用ここまで)
高校生が個人として政治的な活動に関わることは望ましくない。こんな通達がこんな昔に出てたなんてびっくりです。まるで「お酒や煙草やゲームセンターの深夜出入りは大人になってから」みたいな、一種のR-18指定ですね。憲法や子どもの権利条約に抵触するでしょ、これ。子どもだって社会的存在であることの否定ですよね
大人は、「子供は政治に関わると健全に育たない、すぐにゲバ棒持って火焔瓶投げる」みたいな偏見に満ちたイメージを持ってるんでしょうか?別にコスタリカやヨーロッパの高校生達は、ゲバ棒持って火焔瓶投げてないんだけどな
自民党が選挙権年齢を18歳に引き下げたのは、頭の柔軟な若者なら教育を通じて比較的簡単に手名付けられそうだし、いわゆる「若者の保守化」をあてこんで憲法改正に繋げたいという下心があるのではないかといわれていました。
18歳に選挙権年齢を下げた以上、さすがに政治活動の自由を認めないわけにはいきません。
文科省は46年ぶりに通達を変えるそうですが、これがまた問題有り。これについて、また別エントリ-で述べたいと思います。
「授業内容について文科省の指針がまだ示されておらず、戸惑いが大きい」という現場の声も、なんだかな・・と感じます。
そもそも主権者であらんとする意識、それを養う教育は、市民の中からわき上がってくるべきものです
「お上」に対し批判的に物事を見る目を持ってこそ「主権者」といえるのに、、それをどう教育すべきか「お上」の指針を待たなくては動けないって、どう考えても倒錯してる・・。
先生自身が指示待ち人間かと言いたくなりますが、指示に従わなくてはいけない、現場の先生の自由にならない状態になっているのかもしれません
「教育の自由」など名ばかり
「政党の名前を挙げたり、改憲など世論を二分するような問題を取り上げたりすること自体が『政治的』と見なされないか心配」と、おっかなびっくりな状況が既にそれを物語っています
これは教えて良い、これはダメ、などと「お上」に許可された範囲内でおそるおそる授業して「主権者」になんかなれますか?
むしろ、そんなやり方に文句を言っていくのが「主権者」でしょう?
「教育の自由」(憲法23条)なくして、主体的な「主権者」など育たないとつくづく思います
『文部科学省は、主権者教育を推進するための高校生向けの副教材を作成中』だそうですが、現在の文科省大臣は育鵬社激推しの筋金入り歴史修正主義者(こういう人間ほど「政治的中立」を声高に叫ぶ・・)ですから、香ばしい内容になりそうですね
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