コメント
人気取りのための殺人
もちろん無理でしょうが、ついそんなことも
考えてしまいます。
今日も暑苦しい部屋で
≪毒殺≫が≪より人道的≫なのかあたしは知らないが。
≪人気取りのための殺人≫ …… 魯迅の描いた阿Qの処刑に集まる観客が、日本にもウジャウジャいるわけだ。
永山則夫『泪橋』(河出文庫)を読み直すとしよう。
殺人署名活動
なぜこの話題を出したかと言うと、闇サイト殺人事件の加害者の1人がまた別の罪で逮捕されたというニュースでこの母親が「この加害者に更正の可能性などない」と決め付けて断じていることです。身内を殺された被害者とはここまで客観性を失うのかとこの母親を見ていて嫌な気分になりました。
光市母子殺害事件の被害者も極刑を求める姿勢に反発を招きましたが、正直この母親の方がもっと露骨すぎる「憎悪」のむき出し方だと思います。その心には憎悪の感情しかないのかと思う発言ばかり。この母親の存在を見ていると、自分は今まで死刑肯定派でしたが、死刑廃止もありかなと思うようになりました。「殺人」を依頼する署名活動など世界で類を見ない行動じゃないでしょうか。あの事件は被害者1人に対し加害者は3人で、その3人全ての命を奪おうとあの母親は必死になっているのです。
Re: 殺人署名活動>名無しさんHNをお願いします。
私には死刑にして欲しいと願う被害者遺族を責めることはとてもできないのです。当事者が犯人を殺してやりたいほど憎いと思う気持ちは当然だと思います。
死刑廃止を求める相手はあくまで国であって、犯罪被害の当事者である遺族に「死刑にして欲しいと思うな」と聖人君子になることを求めるのが死刑廃止の本筋だとは思っていないので・・
よろしかったらこちらをどうぞ。
http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-145.html
わたしは署名しましたよ…。
わたしも、この署名を名古屋市内でしましたよ。わたしの妻と娘ふたりの氏名と住所を記しました。この事件の犯人だけは、断じて許せません。お母さんのお気持ちが痛い程解ります。もし、わたしの娘が同じ目に遭ったら、わたしは犯人を殺しに行きます。
汚物は焼却だ~
独りで誕まれて来たのであり とある日独りで死んで逝くのだ
とにかく、とてもうれしいです。長い年月『新日本文学』を送っていただいてました。それで、何もお返しをしないで下獄するのがとても心苦しくて、このためにも書いたのですが、どうしても書いておきたいといつも思っていたことごとを今回書いてみました。この小説はこれから書けば書くほどに苦しい思いをするでしょう。しかし死ぬまでには書いておきたいと思っています。
思うのは、小説とは読む分には易しいのですが、いざ自分で書くとなると大変なんだなということです。「テニヲハ」には未だ苦労しています。読者諸氏にも、それらの間違いを気付かれましたらどうか御教示して下さいと乞うしだいです。よろしくお願いします。
でも、へこたれないで書いておくべき事々を、これからも力のかぎり書いていくつもりです。書くべきものがあるので書けるのだと、自らを励ましてこれからも書いていきます。
1983年2月下旬
小説『木橋』で第19回新日本文学賞受賞
……
1969年4月 「連続射殺犯」逮捕
1979年7月 東京地裁 死刑判決
1981年8月 控訴審 無期懲役
1983年7月 東京高裁へ差し戻し
1987年3月 東京高裁 控訴棄却
1990年5月 確定死刑囚として下獄
1997年8月 東京拘置所内で絞殺(48歳)
【出典】
『文藝別冊 完全特集 永山則夫』 p. 151
大谷恭子『死刑事件弁護人 永山則夫とともに』
前回の投稿の訂正
(誤)『泪橋』→『木橋』
>08/04 16:47 By: URL 様
あなたは、このお母様の張り裂けんばかりのご心痛が理解できないのですか?。
『闇サイト殺人事件』(Wikipediaより引用)
……引用開始………
1.概要
犯行前
2007年8月24日午後10時頃、名古屋市千種区の路上を歩いていた31歳の女性を、男3人は道を尋ねる振りをして、強盗目的で拉致した[1][2]。犯行グループ3人は日常生活で面識はなく、知り合って犯行を行うきっかけとなったのが携帯電話サイト「闇の職業安定所」という犯罪者を募集する闇サイトである。「犯罪の素人」によるにわかつくりの犯罪実行グループであった。
この闇サイトで40歳の無職の男Aが投稿し、朝日新聞の新聞拡張員だった36歳男B[3]と無職の32歳男Cの2人の男が参加し犯行を決め、女性を殺害して現金を奪うことにし、8月24日に決行。被害者の女性は偶然見かけただけという通り魔的犯行であった[4]。
犯行当日
8月24日午後10時頃、名古屋市千種区で帰宅途中の路上を歩く女性を車に連れ込んで、手錠をかけて拉致。約6万円とキャッシュカードを奪う[1]。さらに包丁で被害者を脅して、キャッシュカードの暗証番号を聞き出し、8月25日午前0時頃、愛西市佐屋町の駐車場で被害者を殺害する[2]。被害者の女性は「殺さないで下さい」[5]「話を聞いて」[6]と何度も命ごいをしたが聞き入れられず、容疑者は犯行が露見するのを恐れるだけの理由から、何の落ち度もなくかつ怨恨を受けたわけでもない被害者の顔に粘着テープを巻きつけた上にポリ袋をかぶせ、ハンマーで頭を数十回めった打ちにし、遺体を岐阜県瑞浪市の山中に埋めて逃走した[2]。女性の死因は窒息死とみられている[7]。
この男ら3人以外に1人(第4の男)も「闇の職業安定所」で知り合って行動を共にしていた。一緒に犯行前日に名古屋市内の事務所に窃盗目的で侵入したものの、途中で怖くなり逃げ出し犯行直前の時間に警察に自首した[8](裁判では窃盗未遂罪と強盗予備罪で懲役2年執行猶予3年が確定)。女性を殺害した翌日の8月25日午後1時になり、被疑者のうちAが愛知県警に犯行をほのめかす電話をし、逮捕に至った。警察に事件に関与したことを話した理由は「死刑になりたくなかったから」とのことだった[9]。
逮捕後
なお、当該事件を報道で「犯罪の温床」と大きく取り上げられた闇サイト「闇の職業安定所」は8月27日に閉鎖された。また被害者の女性は趣味のブログを公開しており、そこには被害者に対し哀悼のコメントが殺到した。
被害者の母親がマスコミ宛に「もう少しで自宅につけたのに」「犯人を絶対に許せない」という趣旨の手記を寄せた。のちに母親は容疑者らを極刑にするために陳情書の署名を集めるホームページを設立、2007年10月1日に10万人、2008年12月18日に目標の30万人を超える署名を集めた[10]。海外に住む日本人や外国人の署名もあったという。なお、被害者の母親は被疑者3人全員の極刑を求めている。
……引用終了……
被害者の女性は「殺さないで下さい」[5]「話を聞いて」[6]と何度も命ごいをしたが聞き入れられず、容疑者は犯行が露見するのを恐れるだけの理由から、何の落ち度もなくかつ怨恨を受けたわけでもない被害者の顔に粘着テープを巻きつけた上にポリ袋をかぶせ、ハンマーで頭を数十回めった打ちにし、遺体を岐阜県瑞浪市の山中に埋めて逃走した[2]。女性の死因は窒息死とみられている[7]。
女手ひとつで、育てられ、親思いの素直な女性に成長され、婚約もされてました。そんな大切な娘さんをこんな残酷な手口で殺されたお母様のお気持ちを全く斟酌しない、貴殿の表現は看過できませんよ。
この事件の犯人は、絞首刑では軽すぎますね。この被害者と同じ恐怖を味わせて惨殺の刑に処すべきです。
青い鳥さんへ
あれ…?
信念をコロコロ変えてはいけません(-.-)
殺処分
念のため一番上にある私が書いた内容ははあくまで死刑制度を支持に結び付けようとする権力を持つ者についてです。
被害者の側が加害者を殺してやりたいと思っても人の感情としては仕方がないことで、被害者をどのようにケアしていくかは重要なことでしょう。
Re: 殺処分>tokuさん
小野哲さんへの返事http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-1043.html#comment9312にも書きましたが、「死刑にしろ!」には異質なモノ、マイノリティを切断処理して「こちら側」にいるマジョリティは気分サッパリ、という日本の土壌があります。異質なモノもマイノリティも(犯罪者もここに含まれます)私たちの社会が内包しており、同じエリアの中にいるのだ、という意識がないのです。
この切断処理はありとあらゆる面で吹き出してきますよね、例えば生活保護バッシングとか。
>金魚さん
わたしは、この死刑嘆願署名を名古屋市で記したのは、今から4年程前なんですね…。このお母様が、涙ながらに、声を詰まらせ署名活動をされてみえたんです。それを見て同じく娘を持つ親として、このお母様のお気持ちが痛切に理解できるんですよ…。この当時はわたしは、死刑については何の疑問も持っていなかったのです。昨年こちらのブログ様や村野瀬玲奈様のブログで死刑制度の不当性などを学ばさせて頂きました。ただ、この事件の残虐性や、お母様の悲痛な思いを斟酌したならば、この犯人は死刑に値すると考えてしまう自分がいるのです。揺らぐ己れが存在するんですね。
死刑廃止論に理があることは間違いないところですが、この闇サイト事件にのみは、判断が鈍るのですよ…。
金魚さんのご指摘は、その通りです。しかし、この事件についてのみは、思い入れが強すぎるのか判断できないでいるのですよ…、ご理解頂きたい…。ダブルスタンダードであることは認めますよ。 この犯人はほかにも強盗目的で、ふたりを殺害したことがわかったんですよね…。この犯人に更正の可能性がないとしたお母様の訴えは至極真っ当なものであると考えますよ。わたしの好きな作家に、塩野七生さんがみえますが、こう述べられました。『大人は、自分の信念や思想に縛られることなく、現実に起きた事案に対処することも求められる局面がある。』と…。柔軟性や人情もわたしは何より大切にしたいんです。
また、横槍ですが…
橋下氏や石原氏や在特会やまあ、そんなもろもろの問題点は、人間の負の感情を煽る点にあることはご理解いただけていますよね。で、あなたはそれらを敵視しているのですよね。でも、あなたは次のようなことを書きました。
>この事件の犯人は、絞首刑では軽すぎますね。この被害者と同じ恐怖を味わせて惨殺の刑に処すべきです。
これ、人間の負の感情を煽っていますよね。橋下氏がその恐ろしさをはじめて公に現わした光市弁護人に対する言動と類似するものがありますよね。金魚さんが
>あれ…?
>
>信念をコロコロ変えてはいけません(-.-)
と仰ったのは、そういうことだと思うのですが、これには答えていませんよね。それとも、青い鳥さんが彼らに敵意を持つのは、たんに憲法をボロボロにされるからですか? 負の感情が煽られるような社会になったら、憲法がどうでも同じですよ。だいたい、憲法は、国民の過半数が同意しなければ改正されませんし、個別の条文ごとに国民は投票しますし。…話は逸れましたが…。
で、青い鳥さんは「左翼の自己批判」を大分仰っていましたが、「自己批判」って、自分をよく見つめてみるってことから始まるのですよ。なんで、それを求める人が、他者から批判されまくる状態で、コメントをしまくるのですかね。不倫の時には、わざと問題をぶつけてみたくて…みたいなことも仰っていましたが、それ以外のことも、みんなそうなんですか? その割にはいつも、「秋原さんすみません…」とか「僕の悪い癖…」とか仰っていますね。
そもそも、「みんなが思い出したくない?」あの騒動の発端となったことだって、確かに最初に感情的になったのは、青い鳥さんです。これは他の方からも秋原さんからも含め、散発的に指摘されていますよね。で、あなたはそれを、無視したり、逸らしたり、最後には、こっちから離れたあちらに事後に書かれたコメントを引っ張り出して来て、「これで感情的にならずにおれますか?」みたいなことを仰っていますね。便利な思考回路をしているのか、図々しい印象操作なのか、と訝しく思います。きちんと、清算したらいかがですか。こちらには、ほとぼりが冷めそうな頃に、しれっと、針谷氏のことは間違いでしたみたいなこと言っていましたけどね…。向こうの人の言う通り、もう、脱力するしかありませんね。ちなみに、話を微妙に逸らしながら極端な例を持ち出して印象操作をするというのも、あなたが敵対視している人たちの得意技ですね。
それと、「魅力的な左翼」の件ですが、少し、学校とかでよくある「あいつ真面目でつまんねー」の匂いを私は実は感じます。私は、そういうのはむしろ、民主主義とか人権の芽を摘む雰囲気になっていると思います。
青い鳥話法の分析が必要だ 宿題
宿題は朝の涼しい内に片付けてしまいたい。
参考図書 安冨歩『原発危機と東大話法 傍観者の論理 欺瞞の言語』
> dmpx様、>suterakuso様、
殺処分2
だから殺処分なのです。
しかし仇討ちは殺人です。
つまり、その…
ん…?
なんか変だぞ!
説明できない…
【海賊版】鵜飼哲 ホロコースト
これは通常の火葬ではない。この出来事にはホロコーストという言葉こそふさわしい。
≪ホロコースト≫は≪ホロス≫(全体)と≪カウーシス≫(燃焼)の合成から生まれたギリシア語である。文字どおり≪全焼≫を意味する。
第二次大戦後、この言葉がナチスによるユダヤ人絶滅政策を表す言葉として使われてきたことは周知の通りである。単なる虐殺ではなくて、虐殺の痕跡まで抹消し尽くそうとした人類史上前例のない政治犯罪。クロード ランズマンの映画『SHOAH』の公開以来、私たちの思想の地平にも、この出来事をその具体性において思考することの「不可能な可能性」が刻み込まれている。
永山の死刑を執行し激しい抵抗の跡を留めていたにちがいない彼の遺体を燃やし尽くした人々を、とりわけ、自らは手を下すことなくこの行為を命じた人々を、私は、日々何百人というユダヤ人をガス室で「処理」しその死体を焼却したナチス党員から区別することができない。この二種類の人々はどこがちがうのか。収容所の近隣に住む農民たちにとっては、ホロコーストも平穏な日常のなかの出来事だった。1997年8月2日の朝刊で永山の処刑を知った私は、あのポーランド人の農民たちとどこがちがうのか。
(……中略……)
永山の死を、19歳のときに彼が犯した罪=4件の殺人=に対する「当然の償い」であると考える人は多い。その人々は、しかし、かつて中国東北部で七三一部隊の一員として生体実験にかかわった日本人医師が、今、「人道に反する罪」で裁かれ、場合によっては死刑を宣告されるとしたら、それもまた「当然の償い」であると言うだろうか。日本という社会を知る者として、私は、その可能性は小さいと思う。この国の「国民」は、国家の名による殺人に対し,個人的動機による殺人よりもはるかに寛容であるのがつねである。それはなぜか。この現状を生んだのはどんな歴史的事情なのか。この現状を変えるには何が必要なのか。
率直に言おう。私は日本の国家および企業が、植民地支配およびアジア太平洋戦争に犯した罪を誠実に認め、その罪にふさわしい償いを行うことを望んでいる。そして同時に、一日も早く、この国の死刑制度が廃止サレルコとを望んでいる。この欲求に導かれて、私は、いつのまにか、「償い」をめぐる問いの前に立っていたのである。
出典 『文藝別冊 1998年3月号 完全特集 永山則夫』 p. 121
>suterakusoさま
単なる感想です(私も青い鳥さんに横やりになってしまうかもしれませんが…青い鳥さん,ごめんなさい)。
>橋下氏がその恐ろしさをはじめて公に現わした光市弁護人に対する言動と類似するものがありますよね。
そうですか?ちょっとこれ,そもそも2つ同列に並べて比べることではないと思いますけど。
彼(橋下)はあの当時,人気あるタレント弁護士として大きな社会的影響力を持っていたし(今はもっと大きな権力を手にしているけど),
しかも,あの時はその人気を楯にテレビという半ば公的な媒体を私的に使って,大勢の人を動かすために煽りました(自分は動かなかったくせに)。
片や一方は,一ブログのコメント欄に,単なる個人の揺れ動く心持ちを率直に綴っておられるだけです。
「何かを人にやらせよう」として煽っているわけでもなく,自己反省も含めて自己矛盾に悩んでもいらっしゃる。
そんな青い鳥さんと橋下を比べることには,無理があるのではないかと(橋下と比べられた方は,めちゃ失礼やし)。
それに,青い鳥さんのコメントをよく読むと…
時系列的にどうなるのかが書かれているので,金魚さんに対する答も読み取れるように思います。
4年前に署名したのが先,その後死刑廃止論について勉強して考え,最近のコメントに至っている。
その2つを同列(時差なし)で考えると,確かに主張が真逆と思っても無理はないですが,
この2つのあとさき(時差)を考慮して,「基本的な考えとしては,従来のもの(賛=署名)から変化し,まとまった(否)ものの,そのあと個々のケースについては難問ゆえにやはり揺らぎや迷いが生じることもある」←これが起きても仕方ないとは,考えられませんか?
「こうして,こうして,こうあるべき」というのが細かく決まっていると,
考え方に柔軟性を欠き,人(相手)に対してあてる「定規」のメモリも細かくなり,
それがいずれ『他者の排除』に繋がって行く怖さを感じます。
→多様性を認めない他者の排除こそが,今起こっている諸々の問題の背景にあるのです(いじめ,差別,ヘイトクライム,ヘイトスピーチ,生活苦バッシング,家庭内暴力,公務員バッシング笑…。ネット炎上による特定人物の排斥も一例)。
さらに「こうあるべき」がキツ過ぎると,裏を返して「(こうあるべきなのにこうしないのは)こうに違いない(からだ)」という先入観や決めつけになる怖さをも持っている,と私は考えています。
suterakusoさんの持っておられる「〜べき」は,とてもキツいレベルのものなのではないですか。
ですから,青い鳥さんが使われた「〜べき(この被害者と同じ恐怖を味わせて惨殺の刑に処すべき)」にも,とても強い拘束力をお感じになったのでは?
でも,個人の考え方は多様なので,こう書かれていても,もしかしたら本意は「〜に処してもいいくらいの残虐さで許せない」くらいの主張かもしれませんし…ネット上では特に,文字だけではわからないニュアンスも多いので,どうかそのへんの解釈は,できるだけゆるゆるとお願いできるとありがたいです。
でないと,またあの極左さんの総括やら清算やらに…あーこわ。あれはもういいです。
実は,私は昨日,suterakusoさんのコメントを拝読して,あなたのブログを訪問しました(私は元教員なので,教員の感想がききたいと書いてあったので,ちょっと気になったからです)。そこで,suterakusoさんの持っておられる「学校の教師観」に,そういう「枠にはめてステレオタイプにおさめて」教師全員を見ておられるように思えて,違和感を持ったところがあったので,今回,上で「こうに違いない」と思われているところが多いのではないか,の部分まで書かせて頂きました。
最後に元に戻って閉めますと,どうしてそんなに非難するのかなーと不思議に思いました。それこそ,なんか,読む人の負の感情を煽っていることになっていなければいいけど,と。
それと質問ですが,最後の2行の意味するところがよくわかりませんでした。
学校でよく見る「真面目でつまんねー」人が,民主主義とか人権の芽を摘むというのは??
多分私が不勉強で,魅力的な左翼の文脈を理解していないからわからないのだと思いますが,よろしかったら教えて頂けると嬉しいです。
>mimosaさま
それから、橋下氏と一般の人が違うことは分かりますが、一応公共の場で、理由があるとは言え、「…と言いたい気持にもなる」ではなくて、「惨殺の刑に処すべきです」とまで言ってしまうのは、やはり、良くないのではないかと感じます。なにより、手法の類似性は、確かにあります。ですから、橋下氏を敵視する人が、橋下氏と同じ手法を使ってもよろしいのですかと言った訳です。果たして同じ手法と考えるかどうか、この手法を使ってよいと思うかどうかは、青い鳥さん自身が知っているのですが、残念ながら、お答えはありませんでした。
揺らぎはおきるものだと考えていますが、これまで書いたことでご理解いただけると思いますが、私は、揺らぎを責めたりしてはいません。
私の「~べき」がキツいかどうかは、そうですか…としか言いようがありません。まあ、「惨殺の刑に処すべき」とまで言ってしまってる、って感じましたよ。「そうしてもよいくらい許せない」って書いているとは思いませんでした。
私のブログの記事のことですが、あれは、そういう教師の方がもてはやされ気味ではないのかな?って感じていることの表明です。あれは、最近の日本の学校の風潮に適応できている教師への批判というかやっかみで、このまま淘汰されてこんな先生ばかりになると、大変だよなぁと感じるから書いたのです。だから、教師がみんなあんなだって言いたい訳ではないんですが…、そう読まれてしまうのですね。
ちなみに、ステレオタイプは、以前、私がmimosaさんに横槍を入れかけた時に出した言葉ですね。お分かりだと思いますが、私の中ではあの頃からの疑念がずっとあるから、青い鳥さんへの今回のコメントにもなっているんですよね。私は、青い鳥さんは、青い鳥さんの親しんだ民青が善で、新左翼や解同が悪みたいな捉え方があるように思うのです。青い鳥さんはどこかで、きっと奴らは解同に違いない、民青に私が所属していたことを知っていて、チャンスを狙っていたに違いない、みたいなことを仰ったことがありましたよね。そして、その思いのまま、解同とは…と仰ったのではないかと思うのです。それに対して、その青い鳥さんの説明する解同って、ステレオタイプじゃないですかって言った訳です。解同も、特に近年、いろいろな問題が露見していますが、もともとは日本の反差別運動のさきがけとなった水平社に源がある訳ですよね。評価されるべきこともいろいろとあるのではないかと。解同と激しく敵対した民青にアイデンティティを感じている青い鳥さんの仰ることだけで、解同を理解して大丈夫でしょうか?と言いたかったのです。詳しいことはよく分かりませんが、当時の「左翼」はみんな激しく敵対し合ってたみたいですしね。
それから、私の前回のコメントは、このようにあの頃からの蓄積もあってさせていただいたものなので、私にとっては、やはり、青い鳥さんが先に感情的になったのですよ、ということの確認は重要なのですが、mimosaさんはそのことについては特に気にならないのですか。
「真面目でつまんねー」は、教師でいらっしゃったmimosaさんにこそ、同意していただきたいのですが、子どもたちの間で、正論をきちんと言い、他の人を傷つけることもなく、規律正しく生活している子が、まあ、冗談が苦手とか、機転が利かないとかがあるかもしれませんが、「真面目でつまんねー」って言われて、弱い立場に追いやられることが時にあると思います。ここからは私の感覚ですが、私は、左翼をもっと魅力的に、というのを秋原さんにあまりに言ったりするのは、あれと同じものを少し感じるのです。
>mimosa様
わたしは、この闇サイト殺人事件については、まだまだ書き足らない“思い入れ”がありますのですが、エントリーの趣旨に逸脱しますのでやめます。あの犯人だけは絶対に許せません。
mimosa様の記されたコメントが、わたしの真意を見事にくみとって頂けたものです。
わたしがコメントすると、あらぬ方向へ議論が沸き起こる傾向があり、ブログ主様はじめ、皆さんにご迷惑をお掛けしますので、この件についてこのコメントを最後にさせて頂きます。
mimosa様、本当にありがとうございます。わたしは政治には余りに不向きであるなぁと最近つくづく思っているところです。いろいろな思いをみんなが認めあえる“穏やかな共生社会”の実現を望むばかりです…。(笑)
はあ?
mimosa様の記されたコメントが、わたしの真意を見事にくみとって頂けたものです。
え?この二文に整合性はありますかね? それに、私に対するmimosaさんのコメントがあって、それに対する私のコメントがあって、その後なのにですね…。
>わたしは政治には余りに不向きであるなぁと最近つくづく思っているところです。いろいろな思いをみんなが認めあえる“穏やかな共生社会”の実現を望むばかりです…。(笑)
あ、また最後にはちゃんと良い子ちゃんアピールをして締めている…。さしずめ私は総括をする悪人ですね。
うん、でも、青い鳥さんにはこうしてよく退路をつくって下さる方がいらっしゃるのに、私はここでは悪人だということをよく直視して、私は自己反省する必要があるのでしょうね。
…って、へそ曲がりは良くないという忠告を受けたことがあるので真面目に書きますが、私は、ふつうの人たちも、自分が社会の良くない雰囲気が醸成される一因となっていないかと常に自己反省する必要があると考えているから、それから自分の態度は自己反省を妨げる態度ではないか常に点検する必要があると考えているから、こういうコメントをする訳です。自分を振り返って、今のところ、私の態度は社会をぎすぎすの息の詰まるものにしていくようなものではないと思うのですが…。もし、そう感じられるなら、確かに私は、社会の高度化とは、そんなに一人ひとりが安易な態度で生きることを許さないものだと思います。個人がつながっている世界が、本人には意識されなくても、とてつもなく広がっているのですから。そのとてつもなく広がっている世界に対して常に目を向け、複雑なことや、ややこしいことや、思わぬことにも、責任を持たなくてはならないということですね。以前、青い鳥さんに皮肉めかして提示した、サルトルのアンガージュマンとはそういうことなんですけど。まあ、それは当然、なにより自分に対して向けられるべきものではあります。例えば、今、おまえは、他にも振り向けることができる自己の力や電気を使って、鬱々とそんなことをしていて良いのか?というように。
理解不能
ここまでコメント欄を見てきて、suterakusoさんにほぼ全面同意します。青い鳥さんの仰っていることは、死刑制度存置派の意見としては理解できますが、廃止派だとすれば、「は?」ってことになりますよ、そりゃ。廃止派なのに個別の事件についてはその残虐性を斟酌して、「絞首刑ではなく、惨殺にすべき」とまで言っちゃうって、どう考えても理解できませんわ、私には。これって前回のあの議論の時にもありましたよね。差別反対を訴えながら、明らかな差別主義者との連帯が可能だって言い出したり。
橋下らのことは断罪するのに、ご自分の行動については「人間一色じゃない」とか「緩やかな共生社会」みたいな観念論で煙に巻くのはどうかと思います。それなら橋下の行動だって認めてあげても(共生してあげても)いいんじゃね?ってことになりますよ。
それとコメント欄で誰かに助けを求めたり、不必要に(少なくとも私には見える)謝罪したり、不必要に感謝したり、そういうの常連ではない人間からすると何か異様ですよ。自分の発言は、自分で責任もつべきだと思います。
日本国民救援会声明≪滝実法務大臣による死刑執行に抗議する≫
日本国民救援会会長声明
http://kyuenkai.org/index.php?%C2%EC%B9%B3%B5%C4
日本国民救援会
http://kyuenkai.org/
死刑制度の議論
理由として一番大きいのが、1%でも死刑の存続により、普通の人が犯罪に巻き込まれて命を落とさずにいいと思うからです。
しかし、死刑執行に関して国が被害者の仇討ちの代わりや、害虫駆除的なものになったらあかんと思うのです。
この辺の矛盾点を、反対派の人たちとじっくりと議論していく必要があると思うのです。
青い鳥さんのコメントで、あの事件はマルでこの事件はバツでは議論になりません。被害者の人たちはみんな殺されました。
それと
>この被害者と同じ恐怖を味わせて惨殺の刑に処すべきです
とありましたが、僕にはできません。刑務官の人にお願いするこもようしません。
加害者といえど、いや同じ恐怖ということは、加害者の娘をさらってきて、顔をグルグル巻きにして金づちでぶん殴るなんてことを、青い鳥さんはできますか?
やっちゃたら、加害者と同じ残酷な殺人です。
mimosaさま
>皆さんへ
申し訳ありませんが、続きをされるならどこか他所でお願いできますでしょうか。
それから念のため、いっておきますね
「謝罪は不要です」
事件の当事者や詳細を知ると変わるってことかな。
結局事件の内容を詳しく知ると(傍聴など)被告を許せなくなるのではないのかな。
かつて死刑反対派の方で、だから裁判傍聴しないって人いました。
闇サイト事件では、控訴審で死刑から無期に減刑された堀受刑者が強盗殺人で先日逮捕されました。これもあるのかな。
日弁連の提言に賛成します
一昨日から,ちょうど本筋に戻そうと(エントリーにポイントが合った意見を)ぼちぼち書きつつあったところでした(これ↓)。
前回は,排斥の恐怖が蘇る(笑)『蒸返し』に敏感に反応してエントリー逸脱の原因の1つをこしらえてしまい,申し訳ありませんでした。
あすからは,素敵な休暇をお過ごし下さいませ〜♪←文字化け心配(音符マークです)
私は,エントリーにある,日弁連会長さんの次の一節に全面的に賛成です。つまり
>死刑をめぐる議論と切り離して死刑執行がなされるべきではなく、ましてや死刑に関する議論を明らかにしないまま執行すべきではない。
>今こそ、死刑の執行を停止した上で、政府が中心となって死刑に関する情報を広く国民に公開し、国会に死刑問題調査会を設置し、
>法務省に有識者会議を設置する等の方策をとることによって広く国民的な議論を行うべきである」
大学生の時の一般教養の『日本国憲法』の授業(母校では全員必履修でした)で,死刑制度の問題点として習った事柄のうち,当時特に印象に残ったのは,
*死刑は,犯罪の抑止力にはなっていない(なっているという証拠はない),
*死刑を決める裁判官も人間であり,「人間の判断に絶対誤りはない」とはいえない,でした。
(=誤ることもある人間が,他の人間の生死を決めてよいのか,そもそも冤罪の可能性は絶対ゼロにはならない)
→これは今思いつく例ですが→「昔はなかった概念の病気が判明し,その病気が犯罪の原因になったことが死刑後にわかる」こともあるかもしれませんよね。
大学生当時でも,ここまで(上の*2つ)で,ほとんどの学生は『死刑廃止論』の方に傾いたように思います。私もそうでした。
一方,死刑容認派の根拠としての「目には目を」も,自分が被害者遺族の立場だったら当然と考え,当時から納得していました。
今は,(なかなか難しいものの)村野瀬さまの「『死刑制度や死刑執行の是非』と『凶悪犯罪被害者が抱く加害者への復讐感情の是非』とは全く別のことであることを冷静に考えるべき」
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-3640.html
に沿って考えようとしていて,
*死刑=殺人。国家が殺人(=犯罪)を犯してよいのか
*国家が必殺仕事人であるべきではない
の路線も加わって,廃止方向で納得している,しようとする自分がいます。
因みに被害者遺族の感情に関しては,このコメント欄で秋原さんが「死刑にして欲しいと願う被害者遺族を責めることはとてもできない。当事者が犯人を殺してやりたいほど憎いと思う気持ちは当然」と返されているのを拝読し,ホッとしました。
「死刑制度廃止の立ち位置に立っていても,被害者遺族の感情を軽んじているわけではない」とご遺族に理解していただけるようにするにはどうしたらいいか,が難しいですね。特に日本では宗教の「赦し」の精神が浸透していないですし…。そのへんの国民性の事情も,世界規準になかなか行かないことと無関係ではないでしょう。
自分自身を見つめたとき,やはり私も個々の事件の詳細を知れば知るほど,揺れ動いている自分を自覚します。具体例で説明します。
[是(死刑存続)]
光市の事件の被害者の夫,本村さんのあの理知的で説得力のある説明。あれを聞いて,彼(被害者夫)がそう思うのに無理はない,彼は正しい,被告は死刑が妥だと思いましたし,もし自分が被害者なら,私の夫も本村さんのように考えて必ず犯人を殺しに行くだろうと思いました。
闇サイト殺人事件の被害者のお母様の作られたサイトも衝撃的で(ここで青い鳥さんが紹介されるずっと前に読んでいた),彼女の文を読んで事件の詳細を知るうち,ネットで私も今すぐ署名しようと思いました(たまたまPCのメンテ他一身上のトラブルが続いて,その時ネット署名はしませんでしたが,街頭署名があれば名を書いていたと思います。)
東京江東区で女性が隣人に監禁されて殺され,証拠隠滅のため遺体がばらばらにされてトイレに流された事件がありました。あの時も「充分残虐。残虐すぎる」のに,「被害者が1人」で「犯人が反省している」「更正の見込あり」という理由で,この被告が死刑を免れていいの?と思いました。
・殺害方法が残虐か,・被告が反省しているか,・更正の見込み,については,いずれも裁判官の『主観』に左右される部分があるのに,それで然るべきなのかと(弁護人の戦術で,被告の「反省の手紙」が遺族に送られたりすることもあるのに)。
つまりあの時は,判決が死刑でなかったことを意外だと思っている自分に気づき,死刑で当然と思う一方,「死刑は廃止すべき」と考えているはずの自分を思い出し,うろたえてしまった記憶があります。
[否(死刑廃止)]
一方では,その後,光市の事件の加害者の悲惨な家庭状況が具体的にわかる記述と,精神医学的分析をネットで読み,当初「荒唐無稽」と思われた弁護士の話(ドラえもん〜)が実は作り話でないことが理解でき(→弁護士は「被告人の罪を軽くすること」ではなく,「被告人の声を届ける」のが仕事との弁護人仕事の本質についても,午後カフェと村野瀬さんのサイトで教えて頂きました),あの死刑囚は(まともに罪の責任を問える人間か?が疑われる)障がい者かもしれない,との疑いが濃いと思いました。
また,当事者(加害者,被害者,遺族)ではなく,死刑執行に携わる『刑務官』の苦悩についても読んで知り,これは職業上の拷問ではといたたまれなくなりました。仕事は刑務官本人が選んだものであり,選んだ責任が本人にあると言え,全てを知って選んだわけではなかろうし,公務員なので,結局誰かがしないといけない仕事なわけです。誰かが絶対しないといけない仕事に,そのように心を病み,生涯人間としての自尊心がぐちゃぐちゃになる危険性をはらむ仕事が含まれていても,国に責任はないのか?とか…。
このように,同じ事件に関してでも,どちらが妥当かわからず悩んでしまいます。頭で死刑がよくないとわかっていても,「死刑存続派」か「死刑廃止派」かの『二者から択一』と『択一後の徹底(信念として強く持つ)』を迫られると,私はそれをすぱっと選択する自信がありません。
お前がどちらの意見にもホイホイ耳を傾け過ぎだからだと思われるかもしれませんが,(遺族の被害感情はまた別に考えるとしても,それでも)躊躇してアタリマエの難問だと思うのです。確かに私が優柔不断なせいもありますが,でも,やはり個々により判断がつかないこともあっても不思議ではないのでは?人が人を裁くことは難しい。
個々により(詳細を知れば),というところ,しじみさんのご意見↑と共通するところがあるように,自分では思いました。
こういった例をはじめ,数々の具体事例や問題点を考慮した上で,「(制度として)こちら」と何の疑問もなく強い信念で手を挙げることが出来るようになれるだろうか?自分の中でも,ある時は多くの点で「これは死刑が不可避」と存続派としての意見が強くなり(オウム真理教教祖は?),でもまた別の時は,「いや絶対廃止すべきだ」と確信したり(上の例)…。
ここで大切なのは,揺らぎと言ってもAとBの『間』を針が行ったり来たりして悩むパターンではないことです。
針は,「この被告の場合」という条件がつき,(恐らく)必ず「AそうでなければBの『二極』のどちらか」になってしまう。揺らぎと言っても「突然どちらかの極まで振り切れる」感じで,中間で迷う感じではないのです。
基本Aと考えるが,これはBで無理はないと考える「こともある」と。
ですから,細かいところまで整合性を求めることを止めていただくわけには行かないものか?と考えた次第です。
本題に戻ります。だからこそ『いったん死刑執行を停止して』『議論をする態勢に入』らないといけないのではないか,というこの提言に賛成です。
特に,昔と違って「死刑になりたいから大量殺人」を犯す犯人が出て来る時代になっているし(死刑が犯罪抑止力になるどころではなく,促進力になっているなら,大問題!),世相が荒れて,「少数派の排除」にストレス解消が向かうような恐ろしい流れがあるときだからこそ,とにかくまず停止,に賛成です。
議論の態勢に入っても,それは保留であり進歩には繋がらないという説もあるでしょうが,そうでもないと思います。停止して議論している間に,できることもあるかもしれない。例えば外国のように,
(1)「量刑で罪の重さを今よりもっと厳密に表す(懲役100年とか,人間が生きていられないと考えられる長さの懲役刑が出る)」とか,
(2)「終身刑を作る」など。
「無期懲役でも実際はすぐ出所する」と世間では思われているが,それは誤りだそうですね。
でも,例えば無期で服役している殺人犯が(すぐではなく)25年程度で出所したとしても,そのとき遺族が生きていれば,それはやはり短い,あり得ないと思えてしまうと思うし…,結果的に同程度服役することになるにせよ,無期刑の上に終身刑を作ることで,(例えば被害者感情の尊重に少しでも寄与することができるとか,バランス的に適正など)よいと思えるところがありそうなら,そこらあたりから議論を始めてもよいのではないかと思ったりします。
ただ,今は「違憲違法の疑いがある条例」であっても,「とにかく裁判で黒とはっきり出るまでは,とりあえず制定可として,成立すればそれに沿って当てはめていく」みたいな世の中ですから…(笑→もちろんイヤミ!)。なかなか死刑の(撤廃はおろか)『停止』にすら至らないのではないかと危惧しております。ガス抜きのための死刑執行など,一番あってはならないことなんですが。
PS:suterakusoさん
私は教諭は辞めましたが,まだ仕事をしていて,即レスはしたくともできない時もあるので,ご理解下さい。
しかし多忙を脇に置いても,今回あなたが私の返事を待っておられるとは,正直予想外でした。
一通りのキャッチボールは済んだつもりでいたので。何か私に質問されてましたか?
あ,質問に答えて下さったのに,私,うっかりお礼を言い忘れてましたね。すいません。
ありがとうございました(真面目でつまらない生徒が人権の芽を摘む,の意味が不明というところ→補足説明で理解できましたが,もとの文は,もっと主語を明確に書いて下さるとありがたかったです)。
もう一つ,読み直すと「(あの極左さんとのやりとりで)先に感情的になったのは青い鳥さんだったが,気にならないのですか」の質問がありました。
答えますと,諾否より先に,私は「人が触れて欲しくないことを蒸返して,しつこく細かく問いつめること」に抵抗があります。
質問という形を取っていても,それも1つの排除の論理に基づく立派な言葉の暴力なので(イジメみたい)。
そうならないよう,suterakusoさんにも前のコメントで僭越ながら2つアドバイスしましたが,無駄だったようなので,これ以上の水掛け論は避けたく,さらなる説明はあきらめました。青い鳥さんがあの論争でどれほど深く傷つき,辛い思いをされたかを思いやることができないなら,残念です。でもネットでは,お互い通りすがりで相手のことをよく知っているわけでもない(→だからこそ,なおさら「相手に対して容認の幅を広くした方がよいのではないか」と強く思うのですが)ので,それでも=もし思いやりが及ばなくても,仕方ない部分もありますので,あなたを責めているわけでは決してありません。
>mimosaさん
死刑廃止して最高刑を死刑から無期懲役(終身刑と同じですのでこの名称のままにします)にするということは、別に加害者を許して罪一等減じる、ということではないと思います。
今、日本の死刑は江戸時代のように市中引き回しの上火あぶりや磔、打ち首獄門、といった残虐な方法をとっていません。死刑に処せられる者ができるだけ苦しまない「残虐でない方法」をとらなければ憲法違反なのです(古~い判例ですが、確か絞首刑は死刑囚がすぐに気を失うから残虐でない、という理由付けがされてたように記憶しています。この判例自体今はかなり批判されていますが)
では何故死刑の方法が火あぶりや磔といった「残虐な方法」から、それに比して「残虐でない方法」に変わったのでしょうか?
加害者を許し、罪一等減じたから残虐でない方法にしたのでしょうか?
違いますね?
それは、残虐な方法での死刑は文明国家にふさわしくないからです。
そして、現在ではもう一歩進歩して、死刑そのものが基本的人権を尊重する近代民主主義国家にふさわしくない残虐な刑罰だと理解されているのです。
個々の事件に直面すると死刑にすべきかどうかで悩む、とおっしゃっる方は多いですが、それは死刑廃止することが全ての加害者を罪一等減じることだと考えているからではないでしょうか?
そうではなく、刑罰の最高刑が「死刑」であることが民主主義国にふさわしくないから死刑をやめろと主張しているわけです。
死刑廃止国は加害者を全て罪一等減じているわけではありません。とんでもない許せない加害者にはちゃんと「最高刑」(但し死刑ではない)が下されているのです。
なるほど >秋原さま
死刑自体が残虐であり,残虐な刑は文明国家にふさわしくないということですね。
ただ,今の無期刑は,厳密に言うと,終身刑と同じではないと思います。
ですので,残虐な死刑=最高刑であることはやめて,終身刑を最高刑にすべきという主張には一理あるのではないでしょうか。