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優秀作文の女の子へ
子供は黙ってなさい。
by 日本政府 関電社員一同
例えば自民党だろうと民主党だろうと社民党だろうと共産党だろうと公明党だろうと
時には正しいこともしますし間違っていることもします
どこが与党だろうと必要な法案を通すために協力することも当然あるし無いということはあり得ません
同じように核武装を志すような人たちでも脱原発という正しいことを行うためには
(脱原発して核兵器の材料の核物質を安定して手に入れられるのか疑問ですがそれは置いておいて)
時には手を組むことも必要ではないでしょうか
核武装云々は脱原発を達成した後対決すればいい話です
問題は、右翼が反原発運動にフラクションをかけて労組を始めとするこれまで運動を担って来た部分を戦線からけりだしているところにある
その後、統一戦線義勇軍らは「右からの脱原発デモ」を始め、藤波心嬢も参加した。
さらに、統一戦線義勇軍は、経産省テントに現れ、「テントの前に9条護憲の会などの脱原発に関係ない表示を出すのはおかしい。世間の誤解を招くので下げるべきだ」と談判した。これを巡ってもお猪口の中の論議はあったが、表示は下げられたようだ。
そして、彼らは反原連に加わった。
”統一戦線義勇軍 議長 針谷大輔のブログhttp://www.giyuugun.jp/sb/log/eid1088.html
”【呼びかけ】首都圏反原発連合有志
※首都圏反原発連合には、左翼的団体も参加しています。
ですから敢えて有志となっています。”
官邸前抗議では主催の貼ったロープの内側で、「日章旗」を揚げ「子供たちと美しい山河を守れ」とかという幟を立てている。
彼らが、反原連が警察の下請けに見えるような警察との一線を画さない関係や、労組や護憲・人権団体などへの抑圧・選別・排除、結局は見るに見かねて支援してくれた救援連絡センターへの誹謗・攻撃・排除、7.29国会包囲逮捕者無死・切り捨てなどにどの程度関与しているかは不明だが、一連の動き・主張を見ていくと反原連オリジナル3団体の考え方を助長し、誘導した面があるだろう。
右翼は、脱原発運動に首を突っ込み、ある程度、自分の考えた方向に動かしている。
ありきたりに考えれば、全国規模で、17万人集会を打ち、7.29の動員にも貢献し、大きな集会・デモを繰り返し、800万署名を集めた伝統と格式と力量の「さようなら原発1000万アクション」(事務局は原水禁)が、反原発の主流ということになろう。が、野田が会うのは反原連であって、反原連は形式的にせよ脱原発運動の代表、ヘゲモニーを握ったのである。もともと、統一戦線義勇軍針谷大輔は、>脱原発運動=左翼運動という常識を覆す為に、昨年来、右から考える脱原発デモを精力的に展開して来た。まだまだ力量不足だが、多少はこの常識を覆す事が出来たように思う。
と行動し、反原連でも黒子として動いてきたので、徒手空拳、フラクションで、原水禁を蚊帳の外に、反原連野田総理面会を勝ち取ったのは「してやったり!」、というところだろう。
しかし、原発に見られる構造が沖縄の構造とかぶるように、犠牲のシステムは空気のようにどこにでも幾重にも存在している。原子炉以外はこうした構造を推奨する歴史修正・先軍・国家主義者に「脱原発は右も左もない」(実際には一方的に「左派」を抑圧・選別・排除)と行動し、鼻面を引き回されていいものだろうか。ワンイシューなら、ナチやKKKや赤報隊とも行動すべきなのか。国共合作は内戦に戻り冷戦・熱戦にも繋がったし、ワンイシューでナチとつるんだワイマール共和国は第3帝国となって内外3000万人を殺した。
歴史の教訓に学べばApemanさんが説くように、政治的にも倫理的にも現実的にも極右との連携はありえないと思う。
なお、日本にプルトニウムは原子炉級(原爆にしにくい)はもちろん大量に、原爆級も普賢やもんじゅ、ごく初期のコルダーホール型黒鉛炉で出来たものが相当量ある由。原子炉用濃縮ウランを原爆級に再濃縮することも一応はできる。水爆でなければ意味ないと思うけど、原爆材料はたっぷりあるので、全て廃炉にしても核兵器製造に支障はない。
日の丸、右翼、レイシズム、歴史修正主義に反対するのに理由が必要なのか
そんな問題ですか?
どうせなら原発全廃のために利用してやろうと考えてもいいのでは?
この国で右派なんて全く気にする必要はありません。
全然影響力ないですよ。
【海賊版】デーブ スペクター 「真実」を語り続けること
なぜ『ホロコーストの真実』のような本を日本で出版する必要があるのでしょうか。
日本に滞在してから約12年(興味を持ち始めてからなら30年)、自分なりにジャパンウォッチングしてきたつもりです。この国の知識の高さ、文化教養の深さ、戦後50年間、守り続けている独特の平和主義などに魅了され、母国と同じように、日本を尊敬し愛するようになっていました。
最近、その長い歳月のなかで、もっとも衝撃を受けた「ある出来事」が起こりました。それは同時に、もっとも悲しかった出来事でもありました。
日本に住む外国人によくある「文化の違い」でも、個人的なトラブルでもありません。それは、ある雑誌の記事に起因していました。大手出版社の発行する月刊誌『マルコポーロ』に掲載(95/02月号)された「ナチ『ガス室』はなかった」という記事です。いままで信頼していたのに、突然、裏切られたような感じでした。
その記事を書いた人は、ある種の投稿マニア(英字新聞などのメディアが中心)で、その内容にはオリジナリティのかけらもなく、世界中のマイナー系メディアやインターネットでしかみられないようなプロパガンダの受け売りでした。それだけなら、どんな社会にもいる≪辺境人間≫(フレンジエレメント)のたわごとであり、驚くべきことでもありません。
インテリジェンスのあるメジャー雑誌の著名な編集長が、そのような≪ジャンク記事≫を平然と掲載したことに、驚きを隠すことができなかったのです。ホロコーストについての日本社会の認識不足を痛感させられた出来事でした。ジャーナリズムの倫理問題にも通じるようなところを感じさせられました。
日本の学校教育では、自国の歴史さえ満足に教えられていないようですから(無意味な受験競争の弊害としか見えませんが)、歴史的事実の重要性を認識出来ないのかも知れません。あの戦争ですらそうなのですから、ホロコーストに至ってはお寒いかぎりでしょう。
ホロコースト否定論者たちは、反ユダヤ主義、ネオナチなどの極右思想と結びつき、世界的なプロパガンダを繰り返しています。否定者たちは、なぜ歴史的事実を歪曲し、捏造しようとするのでしょうか。本書は、その疑問に充分に答えているでしょう。
当事者であるドイツ人も、世界的情勢からユダヤやイスラエルに敵意を持つ人たちも、ホロコーストを否定していません。何万人もの生き残りや目撃者たちの証言、捏造のしようのない写真や映像記録、几帳面なドイツ人が残した極めて細かい書類、これら山のような証拠があるにもかかわらず、否定説を振りかざす人はあとをたちません。
スピルバーグ監督の映画『シンドラーのリスト』のラストシーンには、腕に強制収容所の囚人番号が永遠に刻まれている、実際の生き残りの人たちが登場しています。彼らの存在そのものを否定するようなウソを、平然と言ってのける人たちの心はどうなっているのでしょうか。
例えば、日本人にとってのヒロシマ、ナガサキへの原爆投下を否定したり、正当化しようとすることが、いかに非常識に思えるか考えてみてください。また、南京大虐殺、ソンミ(ミライ)村虐殺事件などのような悲惨な歴史的事実は、≪嫌悪犯罪≫(ヘイトクライム)以前の道徳の問題であり、いかなる大義名分のもとでも、その曲解を許されることではありません。
歴史的事実のいわれなき否定に怒りを覚えるべきなのは、被害者や遺族などの当事者だけではなく、道徳を重視する世界中のすべての人たちなのです。
日本にきて、外国の真似をした反ユダヤ的出版物が数多く出版されているのには驚かされましたが、それらの本の著者のあまりの無知さに、思わず笑ってしまうのです。私自身たまたまユダヤ人ですが(といっても信仰心はまったくありません)、世界支配の陰謀だの、フリーメーソンの謀略だのといったたわごとを聞くと、唖然とするほかありません。ユダヤ人ほど、自分優先で自由奔放に生きようとする民族はなく、協調性のない民族はないと思うのですが……。
否定者や陰謀論者たちは、「言論の自由」を盾に、真実を葬り去ろうとしています。もちろん、言論の自由は極めて大切なことですが、それはきちんと取材して裏をとっての話です。憶測や妄想で記事を書かれたらたまりません。編集者は当然、言論の自由を貫くためにも、記事をチェックしなければなりません。『マルコポーロ』廃刊に至る経緯は、本来メディアに出るはずのないものを、安易に登場させてしまったメディアの責任を問うことになりました。
彼らの執拗な攻撃も脅威ですが、無知ほど恐ろしいものもありません。私たちは、知らなくてだまされることがよくあります。「歴史は現在にかかわる」という著者のことばを忘れずに、歴史的事実について「知る」努力を怠ってはならないでしょう。私たちが皆、ホロコーストのことをよく知っていれば、『マルコポーロ』の記事など、出来の悪いジョークとして、笑って無視しておけばいいようなものでしかないのですから。
ナチスドイツのヒットラーやゲッペルスは「ウソは大きければ大きいほど、人々を信じさせることができる」という言葉を残しました。私たちにできることは、このナチスの恐ろしい警告を肝に銘じて本書『ホロコーストの真実』の著者のように、「真実」というものを言い続けることです。
1995年10月
デボラ リップシュタット『ホロコーストの真実』(恒友社) 推薦のことば
首都圏反原発連合有志諸氏の 人権意識、歴史意識の御粗末さをあらためて考えさせられる記事
http://london.yahoo.co.jp/news/detail/20120812-00000004-scn
策略による統治 / 劉基『郁離子』
封建時代の楚の国に、猿を召使いにして暮らしている老人がいた。楚の国の人々は、彼を「猿の主人」と呼んでいた。
毎朝、老人は中庭に猿たちを集め、その中の老猿に命じた。若い猿たちを山に連れて行き、茂みや木から果実を採ってくるように、と。収穫の十分の一を老人に献上するのがルールだった。それができない猿は、無情に鞭で打たれた。猿たちはみな惨めな苦しみを味わっていたが、敢えて不平を訴えようとする者はいなかった。
ある日、子猿がほかの猿に尋ねた。「果樹や林の木は、あの老人が植えたの?」と。聞かれた猿は答えた。「いや、自然に生えてきたものさ」。子猿はさらに尋ねた。「老人の許可がないと、果実を採ってはならないの?」。猿たちは言った。「いや、誰が採ってもいい」。子猿は続けて尋ねた。「それじゃあ、なぜ老人に飼われてなきゃならないの?なぜ彼の召使いじゃなきゃいけないの?」
子猿がそう言い終わるか終わらないかのうちに、猿たちはみなハッと覚醒した。
その夜、老人が眠りに落ちるのを見届けて、猿たちはこれまで閉じ込められていた囲いの柵をはずし、囲いそのものを破壊した。また、老人が蔵に貯めていた果実を盗み出し、それを持って森へ逃げ、二度と戻ることはなかった。老人は、ついに飢え死にしたのである。
郁離子 曰く、「世の中には、正当な原理ではなく、策略によって民衆を支配する者がいる。まるで猿の主人のようではないか?彼らは、頭の中が雑念で混乱しているのがわかっていないのだ。民衆が目覚めるやいなや、彼らの権謀はもはや効力を持たなくなる」。
Gene SHARP / 滝口範子 訳 『独裁体制から民主主義へ/権力に対抗するための教科書』(ちくま学芸文庫シ-30-1) p. 042
形容矛盾
真面目でまともな反原発運動が日の丸右翼や核武装論者と共同することはありえない!
なぜか?・・・・
①反原発運動の課題の本質は、国境を越えた国際連帯運動を不可避化させることである。
原発による放射能被害が国境を越えて拡散される可能性を否定出来ない以上、反原発運動に狭い民族主義の枠組みは存在しない。だから、日本の運動も当然国籍や国境を越え出なければならない。
在日外国人の参加や中韓民衆との連帯に障害を設ける日の丸民族運動化した反原発運動は、選別と排除を内在させたニセモノ運動である。
②反原発運動の課題の本質は、人類を放射線被曝の危険から守ることである。
原発の放射能はダメだが核兵器なら許容するという思想には、被曝反対の目的からみて重大な不徹底か悪しき意図が内在している。もしこのような二枚舌を許すならば、核廃棄物の再処理施設問題であれ何であれ、全て「ワン・イシュー」の外側に置かれ許容してしまうことになる。二枚舌の運動はニセモノである。
日の丸右翼や核武装論者と共同する反原発運動なるものは、「丸い三角形」のごとき形容矛盾でしかない。それは、噴飯モノである。