日本でテロ事件の議論が見当はずれになる背景

池内 恵

バングラデシュの事件について、NHKの土曜日の朝の解説番組を見ていたら、やはり日本での議論の仕方は、やはりテロ事件に対する反応としては、全般に見当はずれであった。

日本の議論の仕方で面白いのは、殺された側である日本社会の側が、反射的に「あれが悪かったのではないか」「これが悪かったのではないか」と忖度すること。

いやこれ、毎回毎回繰り返されると、文化人類学的な対象として、面白いと思う。学校のいじめで、「いじめられた方も何が悪かったか考えろ」という「空気」を教師と学生の両方が共有して、もっぱら被害者の方を「教室の和を乱す原因を作った」と追い詰めていく構図も、ここから来ているのではないか。

和が乱れる事件があったら、まず被害者側に「落ち度がなかったか」を問い、改めさせる。それによって将来にまた和が乱れることがないことを祈る。それが日本の「平和」なのだろう。

イスラーム教という神の絶対規範を基準にしてテロを行う相手に直面するという心理的な苦痛を、日本社会の「和」を尊びそれぞれが(特に弱い立場が)自分の「落ち度」を省みて忖度するという反応で、なんとか収めようとしている。

結局「現地のためになる支援になっていなかった」「現地のことをよく知らなかった」という話になってしまっていた。論理展開はもちろんずれている。論理的でない議論は日本のテレビではよく見るので、いちいち指摘していられないから普段見ないのだが、仕事に関わるときだけは見ざるをえない。

出ている人たちは、日頃から非論理的に話をしている人たちではないと思うが(特にゲストの人たちはそうだろう。NHK 社員の人たちはもしかしたら普段から非論理的なのか?と思ってしまったりするがわからん)日本の公的な場所で表出される議論はなぜこう非論理的になるのだろうか。

そもそも日本の支援と欧米の支援には違いがあり、どちらにも利点と失点はある。日本人の現地社会の接し方と欧米とも違いがある(場合もある)。

特に日本人が狙われたわけでもないという大前提も踏まえられておらず、またも「親日国なのになぜ」という誤った問いを繰り返している。

そして結局は、「バングラデシュは親日だが支援が悪かった→テロが起こった」といういくつもの論理的誤謬を含んだ因果関係につなげてしまっている。

「支援が悪かろうが良かろうが、テロは起きます」という現実を提示しては、「番組にならない」と考えるので、「場の空気」を必死に皆で守ろうとするのだろう。しかしこれこそが論理の放棄である。

もちろん番組で提示された新たなタイプの支援は、うまくいけば、悪いものではないと思う。ただし、規模はとてつもなく小さいし、それでバングラデシュの貧困も、バングラデシュのエリート層の抱えるコネ社会から汚職から傲慢なテロの思想の広がりといった問題も、解決できない。「援助をしたとしても、すぐには全体を変えられないが、そもそもすぐに全体を変えられない、当事者たちがそもそも変えられない構造があるから援助をする」というのがそもそも援助なのである。

このような援助の本来の考え方からは、「援助をしてもテロは起こるし、援助が一定の成果を上げて社会が底上げされればやはりテロをやる中間層が増えるということは当然予想しないといけない。それでも援助はやるんです」と言えないのであれば、わざわざお金を出して援助をやることに私は反対だ。人のお金を使って自己満足をすることは倫理的な行為ではないと私は思う。

NHKの番組では、結局「よくない支援をしたからテロが起こった(のではないか)」という話になってしまっている。しかしこれが日本社会の「ことの収め方」なのだろう。

事件が起こったことを機会に、いや事件が起きても起きなくても、支援はもっとよくなるのではないか、と検討するのは良いとは思う。しかし大前提は「支援をしてもしなくても、支援の仕方が良くても悪くても、別の理由でテロは起きる」ということであり、その厳しい現実になぜ目を向けられないのか。なぜそこから目を背ける言説をせっせと人々が生産するのか。これが不思議である。

それは「メディアが悪い」などということではなく(もちろんひどく悪いが。私はNHKBSだけは有益だと思うので、地上波はBSを成り立たせるための隠れ蓑として存在してくれているだけでいいと思っている。膨大なコストだが、それがなければBSの存在は許容されないだろうから、いいのである。無知にはコストが伴うのである)、もっと根深い、日本社会の問題であると思う。

「イスラーム教を理解していなかった」「いやそれよりもバングラデシュを理解するべきだ」といった話にもなっていたが、理解することは大変大切ですが、テロも理解しないといけません。

それによって、「理解していようがいまいが、テロをやってくる相手は別の論理と正義があってやってきますよ」という理不尽な現実に目を向けざるをえなくなるが、これに抵抗する日本社会のものすごい力を感じて、いつもながら、土曜日の朝から疲労するのであった。あまり生産的な疲労ではない。

イスラーム教を理解していなかったからといって殺される理由はない。それが自由主義。小難しいことを言うまえに基本を押さえないといけない。でもその自由主義は、日本には十分にないのだね。


編集部より:この記事は、池内恵氏のFacebook投稿 2016年7月16日の記事を転載させていただきました。転載を快諾された池内氏に御礼申し上げます。

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