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イタリアのウンブリア州に位置する街アッシジ。この街は、フランシスコ会の創設者である聖フランチェスコの出身地として世界中で知られています。この街に建つサン・フランチェスコ大聖堂は、そんな彼の功績をたたえ1253年に献堂されました。この大聖堂は丘の傾斜部分に建っており、上下二段に別れた構造を持ちます。ひとつの特徴としては、下部聖堂にはロマネスク様式が、上部聖堂にはゴシック様式がもちいられており、この2つが組み合わさりサン・フランチェスコ大聖堂を成しています。 今回はこの下部聖堂に関するお話です。下部聖堂はエジプトの十字架、またはT字型十字架(タウ十字架)と呼ばれる様式を持ち、身廊の両脇には複数の礼拝堂が隣接して設けられています。聖堂の壁は13世紀から16世紀に描かれた壁画で埋め尽くされており、そのうちのひとつ、サン・マルティーノ礼拝堂に描かれた「聖マルティヌスの生涯」(Storia della vita di San Martino)をテーマとするフレスコ画はシモーネ・マルティーニ(Simone Martini)によるもので、ご存知の方もいらっしゃるのではないでしょうか。 広大な空間を有する下部聖堂に描かれた壁画群。しかし、近年その傷み具合が懸念され保存修復の必要性が指摘されるようになりました。私も今年の3月にこのサン・フランチェスコ大聖堂を訪れこれらの作品を見てきましたが、同様の印象を受けました。 現在注目されているのは、1368年にサンタ・カテリーナ礼拝堂に描かれたアンドレア・デ・バルトリ(Andrea de’ Bartoli)による作品と、1623年、礼拝堂前にのびる拝廊にウンブリア派の画家チェーザレ・セルメイ(Cesare Sermei)によって描かれた作品です。しかし、保存修復に必要となる費用を工面できず難航していたこの事業。打開策として掲げられたのは、インターネットを通じて資金を世界中から募ろうというものでした。修復が必要とされる壁画の総面積は、おおよそ620㎡。(図参照)目標と掲げる目標金額は、日本円にして6千万円を超えるとされています。今年の3月からI frati del Sacro Convento(直訳:聖なる修道院の修道士‐広報等担当部署)始められたこの試みは、着々と成果をあげているようです。 下部聖堂において保存修復が予定されているおおよそのエリア図 修復の主な目的を見てゆくと、アンドレア・デ・バルトリの作品は、おおよそ基本的な壁画保存修復の処置過程を全て駆使して行う必要があると考えられています。また、約40年前の修復で行われた補彩箇所の多くは変色を起こし、作品の統一感を損ねる要因となっているため、適切な処置が求められています。 一方、チェーザレ・セルメイの作品は、主に天井破損箇所から侵入したと思われる雨水の影響により、塩類の析出やそれに伴う染みが画面の至るところに見られます。また、そうした症状が見られる場所には起こり易い漆喰の剥離や凝集力の低下が発生しています。これは前回のブログ記事『バガン遺跡群 保存の未来』でも触れた症状に酷似しているといえるでしょう。この他にも、過去の修復時に塗布された定着剤が変質を起こし、作品本来がもつ発色を著しく低下させていることも確認されているので、一連の作業工程には除去作業も含まれることとなります。 アッシジといえば、1997年にウンブリア州およびマルケ州を襲ったイタリア中部地震が記憶に新しい方もいらっしゃるのではないでしょうか。サン・フランチェスコ大聖堂の上部聖堂では、チマブエや若き日のジョットが描いた天井壁画の一部が崩れ落ちる映像がニュースで繰り返し映し出されていました。当時この下部聖堂はというと、モニタリング調査の結果、深刻な傷みが確認されなかったことから本格的な修復作業が行われることはありませんでした。フランシスコ会の総本山でもあるこの地は、毎年世界中から数多くの観光客が訪れます。また、であるからこそ、そこに所蔵される美術作品の修復となると熱い視線が注がれます。近年、大聖堂内で行われた壁画の保存修復では、その仕上がり具合が作品本来の美しさを損ねるものであったとの強い批判が度々起こっています。今後、本格的な作業が開始されるであろうこの一連の保存修復事業に、一壁画保存修復士として色々な意味で注目してゆきたいと思います。 『修復予定のサンタ・カテリーナ礼拝堂の様子』*動画が再生されます。 『保存修復への寄付金を募るホームページ』*サイドバーより、傷みに蝕まれた壁画の画像もご覧いただけます。 #
by affresco-bastioni
| 2015-07-25 20:30
| 修復家の独り言
文化庁委託文化遺産国際協力拠点交流事業『ミャンマーの文化遺産保護に関する拠点交流事業』。ここでこの内容に触れるのは3回目となります。今月、再びバガンの街を訪れ、前回同様No.1205寺院の内壁に描かれた壁画の損傷箇所への応急処置と、現地専門家への技術指導を目的とするワークショップを実施しました。 前回のブログ記事『再びミャンマーへ。壁画保存の為の雨漏り対策』の中でも触れましたが、バガン遺跡群に建つパゴダに共通してみられる問題「雨水の侵入と、それに伴う壁画の崩落」。今回は、No.1205寺院内で確認された天井漆喰層の剥離箇所の処置を重点的に行いました。 天井部分における漆喰層の剥離。この状況を処置するに当たり注意すべき点は、下方に向かってかかる重力にあります。例えば、支持体との隙間を埋めるために多くの充填剤を注入してしまうと、その重量が負担となり落下してしまう危険を伴います。壁画に用いられる漆喰層は例え薄く仕上げられていても、広面積となった場合その総重量はかなりのもとなります。それらが剥離を起こしているとき、例え重量の軽い充填材料を選んだとしても負担になることは否めません。また、剥離が起きている隙間内部を目視で確認することは特殊な機材でも使わない限り不可能ですから、充填剤が支持体と漆喰層を十分に繋ぎ止める効果を発揮しているかを確認することはできません。更に、通常隙間内部には埃など異物が堆積していることが多く、これらを十分に除去することができなければ、充填剤に幾ら接着力を持たせたとしても、理想的な効果は得られないのです。 これらを考慮して、今回は部分固定法と呼ばれる修復方法を採用し、剥離している漆喰層と天井支持体を繋ぎ止める処置を行いました。その方法とは、剥離している漆喰と、その下にある支持体(今回の場合は煉瓦)に直径1.5mm程度の穴を開け、支柱となる棒を複数箇所設置し、天井支持体と漆喰層を固定するというものです。こうする事で支柱は、吊り金具のような役割を果たしてくれます。また、この部分固定法の利点はもうひとつ、先にも書いた充填剤の重量を緩和する役割も果たしてくれるのです。 なお、支柱の固定には現地でも容易に入手可能な酢酸ビニル樹脂を採用しました。一連の保存修復技術は全て、ミャンマーで問題なく継続的に使用可能なものでなくてはなりません。決して最適であるからといってその国で入手困難なものを海外から持ち込み、事業が行われる期間限定の特別仕様であってはならないのです。もちろん、現地の専門家には「本来であればこういう材料があり、こういう使い方をするのが最も適していますよ」という事は伝えます。しかし、現時点において無理なく適切な処置ができる技術を的確に伝えることこそが、本事業において最優先すべき事ではないかと私は考えます。 上の写真は、実際に部分固定法を使って処置を行った天井です。実はこのアーチ状になった天井全体が剥離を起こしており、一番高い中央部分に向かって左右からのびる漆喰層同士が力学的に支え合うことで辛うじて崩落を免れている状況でした。仮にこの天井が平らなものであれば、既に失われていたことでしょう。写真をご覧いただくと、2箇所が大きく剥落し、屋外から流れ込んだ雨水によって壁画の表面が洗い流されている様子が確認できると思いますが、この雨水こそが漆喰層の裏面に流れ込み支持体との接合力を著しく低下させ、剥離を招いた原因であると考えられます。適切な場所を選定し設置した支柱の数は約30本。今回の処置を行う前には触れると天井全体が波打つように動いていたものが、処置後にはしっかりと天井支持体に固定されました。 また、この部分の雨漏りの原因と考えられる場所を特定し、外壁の応急処置も行いました。煉瓦の老朽化に伴い出来た大きな穴を塞ぐことで、雨水の侵入経路を遮断することができました。 また、今回の滞在中には、寺院の2箇所に設けられている出入り口に鉄製の扉を設置しました。ミャンマーにおけるパゴダは「釈迦の住む家」と考えられる神聖な場であり、中には仏像が祀られていることが多く、その前に花が手向けられている光景をよく見ます。本来は信者が自由に出入りし祈りを捧げる場でなくてはならないパゴダに扉を設置する主な目的は、内部環境の保存にあります。近年バガンでは観光客の数が増え続けています。それに伴い、パゴダ内部には心無い落書きや破壊行為が増えており、これらを防ぐ手立てとして、また、鳥や獣の侵入を防ぐ狙いもあります。こうして、壁画が残されているものなど、重要と位置付けられるパゴダには扉が設置されるようになりました。 こうした保存への取り組みを文化財保存の一専門家としてみた場合には、正しい取り組みではないかと思います。しかしその一方で、「これまでこの地を守り続けてきた現地の人々の目にはどのように映っているのだろうか」ということを考えます。ユネスコも加わり世界遺産登録に向け急速に整備が進められるバガン。ある意味、海外の様々な国が出入りしている現状は特殊であるといえるでしょう。以前『文化財保存に対する意識』でも触れましたが、専門家だけで文化財を守り続けて行くことはできません。やはり、その地に暮らす人々の関心と理解を得ながら進めてゆくことが、バガンの未来にとって重要であると考えます。ならば、どうすれば良いのか…現時点においてまだ明確な答えは見付かっていません。大好きな壁画を守るだけでなく、文化財保存の本質をみつめながら今後の活動に取り組んで行きたいと思います。 #
by affresco-bastioni
| 2015-06-20 21:00
| 修復家の独り言
みなさんはソドマ(Il Sodoma:1477-1549)という画家をご存知ですか?本名をジョバンニ・アントニオ・バッツィ(Giovanni Antonio Bazzi)といい、イタリアとフランスの国境に位置するピエモンテ州のヴェルチェッリという地に生まれました。13歳より画家としての修業をはじめ、1501年、彼が24歳のときにトスカーナ州のシエナに活動の場を移します。その後、ペルジーノの弟子(ラファエロの兄弟弟子にあたる)といわれるピントゥリッキオ(Pinturicchio)と並んで盛期ルネサンス様式を取り入れた数々の作品を、このシエナを中心に制作してゆきます。 生涯を通じて多くの時間をシエナで過ごしたソドマですが、ローマでも活動しています。1508年、教皇ユリウス2世からはバチカン宮殿の『署名の間』への製作を依頼されていますから、画家としての評価が高かったことが伺えます。ここで、「『署名の間』といえばラファエロが製作したのでは?」と、思われた方がいらっしゃるのではないでしょうか。その通り、有名な『アテナイの学堂』や『聖体の論議』が描かれている部屋が『署名の間』です。実は、ソドマが製作した作品をみた教皇はその出来栄えが気に入らず(ジョルジョ・ヴァザーリ談)改めてラファエロに依頼。既に描かれていたソドマの作品は剥ぎ取られ描き直されたとのエピソードが残っています。 一度はシエナに戻るソドマでしたが、再びローマでの仕事の依頼を受け舞い戻っています。銀行家だったアゴスティーノ・キージによって建てられた「ファルネジーナ荘」において、キージの寝室の壁に描いた作品『アレクサンドロスとロクサネの婚礼』(1519年)は素晴らしい作品のひとつと言えるでしょう。ちなみにこのファルネジーナ荘にあるガラテアの間には、ラファエロの代表作『ガラテアの勝利』(1509~1512年)も描かれています。ローマを訪れる際には是非お立ち寄り下さい。 そんなソドマがシエナに移り住んでから数年後に描いた代表作が、モンテ・オリヴェート・マッジョーレ修道院(ベネディクト修道会属)の大回廊に描かれています。先月のブログ記事の中で触れた壁画はアッシャーノという街に描かれていますが、そこからこの修道院へは距離にして約10km、車で約15分の所にあります。私はよくその途中にあるキウスーレ(Chiusure)という街のレストランに食事に行っていたのですが、高台にあるこの街から見下ろせば、このモンテ・オリヴェート・マッジョーレ修道院が目に飛び込んできます。写真の様に緑に囲まれた中に佇むこの修道院が私は大好きで、休日になれば足を伸ばし回廊に描かれた壁画を眺めるのがリラックス方法のひとつでした。 この回廊の壁画は『聖ベネディクトの生涯』をテーマに描かれたもので、全部で36の場面から構成されています。もともとはルカ・シニョレッリ(Luca Signorelli)が仕事の依頼を受けて壁画の製作を始めたのですが(1497~1498年)、更に重要なオルヴィエート大聖堂サン・ブリツィオ礼拝堂への壁画製作依頼を受けて中断。それを引き継ぐ形で筆をとったのがソドマでした。1505年から描き上げたのは実に27の場面。(ルカ・シニョレッリが8場面、バルトロメオ・ネローニが1場面[1540年製作])ソドマ独特の色彩と筆遣いで描かれた作品は、登場人物の表情も豊かで見る者を飽きさせません。こうした個性的ともいえる表現は、彼が使った技法に秘密が隠されているのではないかと私は考えています。フレスコ画の特徴のひとつである透明感を持った色彩とは異なり、深みのある印象を受けるソドマの色遣い。そこには、純粋なフレスコ画技法だけではなく、油彩画やテンペラ画といった異なる技法が混合技法として取り入れられている点にあると思われます。 ここでエピソードをひとつ。ソドマがシエナに活動の場を移す前の1498年、彼が21歳の頃。実はミラノで生活していた時期があります。当時のミラノといえば、そう、あのレオナルド・ダ・ヴィンチが『最後の晩餐』を仕上げていた時期に当たります。レオナルド・ダ・ヴィンチがフレスコ画技法を嫌い、油彩画やテンペラ画で壁画を製作していた事は有名な話ですが、そんなレオナルドの元をソドマが訪れていたとしたら…その製作スタイルから何かを学んでいたとしても不思議ではありません。事実、ソドマの描いた作品がレオナルドの作品ではないかと勘違いされていたこともあり、大きな影響を受けていたことに疑う余地もありません。こうした事を考えると、モンテ・オリヴェート・マッジョーレ修道院での壁画製作に、レオナルドから学んだ混合技法が取り入れていたとしても、ごく自然な流れであったといえるでしょう。 この様に、製作スタイルと歴史の流れを組み合わせてみてゆけば、色々と面白いことが見えてきます。こうした事も、壁画保存修復に携わる者の楽しみのひとつと言えるかもしれません。 モンテ・オリヴェート・マッジョーレ修道院は、決してアクセスの良い場所にあるとはいえません。しかし、機会があれば是非、このレオナルド・ダ・ヴィンチからの流れを汲むソドマや、ミケランジェロに多大なる影響を与えたルカ・シニョレッリの壁画作品を鑑賞しに訪れてみて下さい。修道院を取り囲む環境が、回廊の空間が、そして、そこに描かれている作品群が、あなたを異世界へと誘ってくれることでしょう。 #
by affresco-bastioni
| 2015-05-20 21:00
| 修復家の独り言
以前ご紹介した記事『小さな街アッシャーノのフレスコ画』。2月から3月にかけ再び現地を訪れ、現在進行中である保存修復作業の微調整と今後の方針打ち合わせ。そして、地元中高生を対象とした特別講義を実施しました。 前回の作業から約5ヶ月が経過しましたが、特に大きな問題点は確認されず、個人的に一番懸念していた大きな亀裂の処置箇所も安定していました。壁画における亀裂箇所は、長年に渡り外気に触れていたものを修復によって閉じることで作品状態を大きく変化させてしまうことになります。それにより、壁が呼吸を繰り返す中で思わぬ染みが発生したり、周辺部分に亀裂が生じたりすることがあるのです。今回、広い部分では亀裂幅が2~3cmありましたから、作品状態の変化は大きくなるといえます。この様な理由から、私の不安材料のひとつとなっていたのでした。良好な経過状況が確認できたことを受け、当初の予定通り今年の夏には彩色層の全体的な補強と補彩作業を中心に作業を行う予定です。 今回の滞在の主な目的は、先にも書いた様に地元中高生を対象に行う特別講義にありました。現実的なお話として文化財というものは、現在の様に保存修復事業が動いている間は何かと注目されますが、ひとたび終焉を迎えると注目度は一気に下がり、見向きされなくなってしまう事が多いといえます。それは、専門家の目が行き届かなくなる事でもあり、早期に適切な処置を行えば回避できる問題点を見落としてしまう事にも繋がってしまいます。 そこで重要となってくるのが、身近に暮らす人々による作品管理です。「作品管理」というと大仰に聞こえるかもしれませんが、この場合それは作品に対して関心を持つことと言いかえる事ができます。例えば、専門家でなくとも身の回りにある文化財に関心をもつことで意識がそこに向かい、何か異変が起これば気付く可能性が高まります。今回の講義では、「壁画はどのようにして描かれているのか」また、「現在行っている保存修復とはどういったものか」、「何を目的としているのか」をテーマにお話させていただきました。学生達は興味深く講義に参加してくれて、最後に設けていた質疑応答にも積極的に参加してくれていました。 数十人程度が参加した小さな講義ではありましたが、こうした取り組みが少しずつ広がり、大きな効果をもたらしてくれるのではないかと期待しています。これは、特定の地域に限られたものではなく、全世界の文化財を所有する全ての地域に共通していえることではないでしょうか。文化や宗教の違いから様々な捉え方がなされる文化財。その価値や重要性を適切に理解し、同じ意識を持って対峙してゆくことができれば、今以上に良好な保存環境が確立されてゆくのではないかと考えます。 #
by affresco-bastioni
| 2015-04-20 20:00
| 修復家の独り言
昨年の6月に続き、文化庁委託文化遺産国際協力拠点交流事業(ミャンマーの文化遺産保護に関する拠点交流事業)の一環としてミャンマーにあるバガンの街を訪れました。(2014年6月25日の記事『文化遺産保護に対する意識』を参照) 今回は前回の調査結果をもとに、バガン遺跡群内に建つNo.1205寺院の内壁に描かれた壁画の損傷箇所に応急処置を施すことが目的でした。処置を始める前の状態はというと、約40年前から複数回に渡り修復の手が入っているのですが、その時々に使われていた修復材料が異なることから壁画が本来持つべき統一感が損なわれていました。また、使われている修復材料が不適切であったことが理由で発生したと考えられる傷みが複数箇所にみられ、その中には現在進行中のものも確認されました。 こうした状況から、今回の作業では古い修復材料の除去と、新しい修復材料の選択、そして、崩落の危険性がある箇所への処置が主な内容となりました。当然の事ではありますが、私達がこうした保存修復事業に関わるのは一時的なものであり、将来的にはミャンマーの専門家が引き継いでゆかなくてはならないものです。ですから、今回の修復材料を選択するに当たっても、オリジナルの壁画の性質を考慮したうえで全て現地調達できるもので作業を進める事に。ですから、漆喰を調合する上で必要となる川砂も、近くを流れるエーヤワディー川(旧称イラワジ川)のほとりまで採取しに赴き、綺麗な水で何度も洗い天日干ししてから使用する手順を選択しました。 また、約3000基ともいわれるパゴダ(ミャンマー様式仏塔)に共通してみられる深刻な問題のひとつである雨漏りについても、今回は詳しく調査することができました。パゴダの屋根に登り確認したところ、組まれた煉瓦が所々破損していることが分かったのです。雨期のあるミャンマーでは、5月から10月にかけて大量の雨が降ります。この雨水がこの破損箇所から流れ込み、内部に描かれた壁画を蝕む大きな要因となっているのです。今後は、この破損箇所の処置も視野に入れた保存修復計画を進めてゆく予定です。 それに伴い必要と考えられる足場についても調査を行いました。日本や欧米諸国では金属製が当たり前の足場ですが、ミャンマーでは竹組の足場が主流です。その安全性や快適性を確認すべく、現在設置されている足場に登らせてもらったのですが、想像以上に頑丈で安定していることに驚かされました。金属製の足場と竹組の足場とでは、そこにかかる費用も大きく異なるため経費の削減にも繋がりますし、今後は、この竹組の足場を活用しながら屋根の保存修復を実施できればと考えています。 調査を行っている最中、床タイルの修理工事が行われている現場に遭遇したのですが、恐らく作業をしている方のお子さんだと思われます。まだまだ小さいのに、重たい金槌片手にお手伝いしようとしていました(笑)こうしてお父さんの背中を見て、立派に育ってゆくのでしょうね。急速に発展を続けるミャンマー。この子達が大人になる頃には、いったいどんな国になっているのでしょうか・・・ #
by affresco-bastioni
| 2015-02-25 18:00
| 修復家の独り言
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