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音楽、政治、武勇伝…素顔の人間・坂本龍一 同時代を共有した評論家が、「世界的存在」の最も生々しい軌跡を描く
世界的な音楽家として、また非戦や脱原発に向けた発信によって、歴史上のレジェンドとなった坂本龍一。だが、かつて濃密な時間を共にした中森明夫氏は、その生々しい素顔が忘れられないという。秘話満載で、「人間臭い偉人」を初めて描く評伝大作。
坂本龍一が亡くなって3年余りが過ぎた。死去して忘れ去られるどころか、ますますその名前はとどろいている。今でもしょっちゅう彼の音楽を耳にする。昨年、東京都現代美術館で開催された展覧会「坂本龍一/音を視る 時を聴く」は大盛況で、34万人超という同館史上最多来場者数を記録した。若い観客も多い。世代を超えてその名声は伝播(でんぱ)・継承され、もはや歴史上の偉人となったかのようである。
坂本は、私にとっても特別な存在だ。若き日のある時期、多くの濃密な時間を共にした。忘れられない思い出がいっぱいある。アーティストとしてのみならず、人間・坂本龍一に魅せられた。確実に我が人生、私の精神に深い痕跡を残したのだ……今となってはそう思う。
坂本といえばYMO、イエロー・マジック・オーケストラである。1980年代、テクノポップブームに乗って大ヒットを連発。はっぴいえんどの細野晴臣、サディスティック・ミカ・バンドの高橋幸宏は、知っている。が、サカモト……リュウイチ……誰この人? 当初、そんな感じだった。明らかに彼ひとり気配が違う。東京藝術大学の作曲科を出て同大学院へ、〝教授〟と呼ばれていた。黒塗りの車の後部座席で『現代思想』誌を読み耽(ふけ)っているという。まったくの無表情で、透明な瞳をしてキーボードを奏でる。理知的で、ハンサムで、どこか退廃的で……たちまち女性ファンの人気が沸騰する。RCサクセションの忌野清志郎と『い・け・な・いルージュマジック』をリリース、ド派手なメイクで歌番組に出て、男同士がキスをして視聴者の度肝を抜いた。
私が坂本の実物を目撃したのは、83年初春である。日仏会館で行われた映画『戦場のメリークリスマス』の公開試写会へと行ったのだ。上映終了後、坂本が登壇する。若い女性の観客から手が挙がり、質問が飛んだ。「清志郎とデビッド・ボウイのキス、感触は違いましたか?」。坂本はにこりともしないで答える。「清志郎のほうが……強引でした」。観客席から悲鳴が上がった。
警察署で「三島の遺体に会わせろ!」
あの頃の坂本龍一の輝きをどう伝えたらいいだろう? 単なる人気芸能人ではない。70年代の暗いトンネルを抜けると、パッと80年代の幕が開いた。YMOの『テクノポリス』や『ライディーン』のテクノ音と共に。音楽のみではない。漫才ブームや、コピーライターブーム、漫画ニューウェーブ、新進映画監督らのディレクターズ・カンパニー、さらには若手学者らのニュー・アカデミズムブームへ……80年代前半はジャンルを超えて新しいカルチャーの爆発的な気配が溢(あふ)れ返っていた。その中心にいたのが、坂本龍一である。筑紫哲也編集長の『朝日ジャーナル』の〝若者たちの神々〟に登場し、糸井重里司会の若者番組『YOU』のテーマ曲を奏で、ビートたけしと映画『戦メリ』で共演して、ニューアカ学者の浅田彰や中沢新一と難解用語の飛び交う対談をこなす。80年代カルチャーが沸騰して、この国の世相がスウィングしている。まぎれもなくサカモトは、時代のポップアイコンとして燦然(さんぜん)とまばゆい輝きを放っていた。
私もまたそんな時代の末席にいた。先の筑紫の『朝日ジャーナル』の〝神々〟が尽きて、〝新人類の旗手たち〟なる連載が始まり、お呼びがかかったのだ。1985年、25歳。私はマイナーなフリーライターにすぎなかった。仲間たちと喋(しゃべ)りまくった「週刊本」がいささかの注目を浴びる。その序文で私は、YMOになりたい、坂本龍一のように……と書いた。それを目にした坂本が、なんと私に会いたいという。舞い上がった。初対面で差し出された手を握り締め、「わっ、YMOの教授だ!」とどきどきした。「ボクも新人類だったんだよなあ」と坂本は言う。三島由紀夫が自決した時、18歳だった彼は「三島の遺体に会わせろ!」と警察署に押しかけたとか!? わっ、ラディカルやなあ。そういえば教授の父君(坂本一亀(かずき))は三島に『仮面の告白』を書かせたカリスマ編集者だったっけ。なぜか気に入られ、その後、坂本が編集長を務める雑誌内新聞「月刊リュウイチ・勇気」のスタッフや彼のラジオ番組のレギュラー出演者として迎えられる。毎週のように会い、食事を共にして、朝まで呑(の)んだ。夢のような日々だった。
坂本は気さくでよく笑い、バカ話が大好きだった。繊細で病的な人かと思ったら、首が太く上半身ががっちりしている。めったに怒らないが、時に立腹して怒鳴るのはお腹がすいてる時だ。麺類やご飯類など炭水化物をばくばく食べる。満腹になると笑顔になった。ピアノに向かうと表情が一変する。音楽は彼にとっての聖域なのだな、と痛感した。
カルチャー雑誌『宝島』で私が連載していた「東京トンガリキッズ」は、若い読者らによく読まれた。そこで教授に憧れる少年の物語を書いたのだ。題して〈坂本龍一になりたい〉。掲載誌を渡すと、すぐに読んでくれた。「お〜、ありがとう!」とととても喜んでくれた。主人公の少年が秘密のノートに記した文面、その箇所を指差している。
〈少年だったあの頃
世界を憎悪しながら千の音を聞いていた
『差異と反復』より速く、ドゥルーズを識ること
〝differencia〟を聞くこと
『共同幻想論』より速く、ヨシモトを識ること
〝participation mystique〟を聞くこと
坂本龍一に なりたい〉
「ここんとこが、いいね〜!」と顔をほころばせて声を上げた。
時代はバブルへと向かう1980年代中後半である。狂騒の空気が漂っていた。坂本の誕生パーティーに出て、二次会のお店へ。わっと押し寄せたギョーカイ人の一団が大騒ぎになる。野球拳が始まった。坂本とジャンケン対決した若い女子アナが負けて、その場でパンティストッキングを脱ぐ。そのパンストを頭から被(かぶ)せられ「わーっ」と坂本は悲鳴を上げていた。先日、40年ぶりに当の女子アナと再会して、この件を話すと「ああ、そうでした!」とはっきりと覚えていた。誰とは言わないが……長野智子さんである(笑)。
坂本に仕えた番頭体質の全共闘オヤジ
先頃、ネット検索していたら、坂本と村上龍と幻冬舎社長の見城徹がトークしている映像が出てきた。10年前のものだ。若き日の坂本の武勇伝が語られている。ニューヨークのセレブレストランで失礼なインタビュアーにキレて、坂本が大激怒した話だ。
〈見城「その時の(録音)テープを中森明夫って奴(やつ)が取ってたんだよ」、坂本「持ってるんだ、あいつ!?」〉……あっ! と声を上げた。
「本当に坂本のために尽くした人がいて、フリーの編集者なんだけど、その人が坂本がいろんな人に取られちゃうって思いがあった」と見城。そうした感情でトゲのある質問を繰り返して、坂本の激怒を買ったという顚末(てんまつ)である。思い出した。その人は……国江義夫(仮名)。
国江は、坂本の最側近のスタッフだった。フリーのエディターでデザイナーでもある。坂本が主宰する書籍レーベル〝本本堂〟をたった一人で切り盛りしていた。高橋悠治と坂本の対談集『長電話』、『本本堂未刊行図書目録』『音楽図鑑』『未来派2009』等、坂本の音楽活動と併走して異様に完成度の高い書籍を何冊も世に出している。坂本の信頼を得て、しょっちゅう呼び出され、見城や私と一緒に食事や酒席を共にしていた。国江は坂本より6歳上で、いわゆる団塊の世代だ。高校時代に政治闘争にのめり込み、大学へ行かなかった。小柄でメガネを掛け、ウディ・アレンによく似た風貌だが、酒が入ると若き日の武勇伝が飛び出した。「だから君たち、新人類はダメなんだ!」と年少の私たちを怒鳴りまくる。典型的な全共闘オヤジである。主人である坂本の前では腰を低く神妙にして、対外的には威張る。いわば番頭体質の人だ。
国江は坂本の相談相手となり、トラブル処理のような役割を担うようにもなった。何しろ坂本の女性関係は派手だった。ラジオの収録終わりの打ち上げで、店で出会った女性と消えてゆくのも何度か見ている。心配したのは、国江だ。「よくフォーカスされないよな、いつか大スキャンダルになるんじゃないか」。私たち周辺で評判のよくない女の子が六本木のクラブ・インクスティックに坂本を誘い出して、今、いるらしい…との情報を聞いた。国江に知らせる。「えっ!」と真っ青な顔になった彼は即座に店に電話したのだ。「坂本さん、気をつけてください! その女は…お、男をダメにする女です!!」。その後、何度もそのセリフを笑いながら坂本は物真似(まね)していた。
レストランのテーブルをひっくり返した
映画『ラストエンペラー』の音楽でアカデミー賞を受賞すると、周囲に変化が生じる。お祝いの会で「中森くん、獲ったよ〜」と笑顔の坂本はオスカー像を触らせてくれたのだ。彼自身は変わったように見えないが、周りは違っていた。以前に増して数ランクも上の超セレブとなり、新たな人々が取り巻くようになる。そのことに国江は苛立(いらだ)っていた。見城が言うように「坂本がいろんな人に取られちゃう」と思ったのだろうか。そうして、あのニューヨークの高級レストランでの大事件へ……。帰国した国江に呼び出され、九段下の彼の事務所へ行くと、もう缶ビールを何本も空けて酔っ払っていた。目を真っ赤にしている。「中森くん、これ聞いてよ」とカセットテープを回した。ざわざわとして、何か言い争っている。坂本と国江が激しい口論をしていた。と、突然、「ふざけんなよっ!」と獣の雄叫(おたけ)びのような凄(すさ)まじい怒鳴り声を上げて、ぐわっしゃ〜ん!と大音場が……。坂本がレストランのテーブルをひっくり返したのだ。「待て、坂本、落ちつけ!」と見城の声、殴りかかろうとする坂本を背後からはがいじめして「坂本、ひと落ち着きしよう、なっ、ひと落ち着きしよう……」と泣きそうな声で見城は何度も繰り返している。意味不明の叫び声を上げて暴れる坂本、周囲の悲鳴、騒然とした現場の……それは鬼気迫る実況録音だった。『ラストエンペラー』でアカデミー賞を受賞して3カ月後、ニューヨークでのコンサートを終えた直後の打ち上げの席だ。1988年6月である。そのテープを聴いた時のゾッとした感情が、今、甦(よみがえ)ってきた。見城はこの一件を忠臣蔵になぞらえて〈ニューヨーク〝松の廊下〟事件〉と呼んだものである。
国江は坂本に詫(わ)びたが、もはや復縁は叶(かな)わなかった。その後、時折、国江に呼び出され、私はグチを聞かされた。いつも泥酔して坂本をあしざまに悪く言う。
「な〜にが世界のサカモトだ。ちゃんちゃらおかしいよ。坂本はな、俺が高校生の時に作った活動組織のはるか後輩で、下っ端の下っ端だったんだ。世が世なら、あんな奴……処刑だよ!」。ぞっとした。目の前にいるのは失意に打ちひしがれ、壊れていく男だった。
2018年、国江の訃報を聞いた。あちこちでトラブルを起こして孤立し、悲惨な晩年だったようである。国江と昔よく行ったバーを訪ね、女店主に伝えた。「そういえば……半年ほど前かしら、国江さんがいらっしゃってね」。えっ? 「本当に久しぶりで、若い男の子を連れていました。ミュージシャンだと言うんですよ。こいつはすごく才能があるんだ、今はまだ無名だけどね。いずれ……坂本龍一を追い越すんだって」。絶句した。絶縁から30年を経ている。けれど、なんと未(いま)だ彼は坂本の幻影に囚(とら)われていたのだ。
坂本は暴君だったわけではない。私に対してはいつも実に優しかった。国江にキレたのも、信頼していた相手に理不尽に攻撃され、傷ついたのだろう。目に見えるようだ。その後、国江の名前が出ると傷ついた少年のような表情になった。今では聖人君子のレジェンドのように語られるけれど、私の記憶にあるのは、そんな人間くさい一面ばかりである。
遺著の最後「芸術は永く、人生は短し」
1989年12月30日の夜、私は坂本とすごした。80年代の最後を教授と時間を共にしている!と興奮したものだ。見城が編集長を務める『月刊カドカワ』の坂本龍一特集で、私がインタビュアーを務めた。『ビューティ』と題するアルバムをリリースした直後である。その年は昭和から平成へ、中国の天安門事件やベルリンの壁の崩壊や社会主義国の陥落や、様々な世界的な大変動があった。坂本はそれらに興奮して「天安門で抗議して戦車の前に立つ男は、ビューティだよね」と言う。それでも自分の音楽は政治や社会的メッセージとは切り離されている、と強調した。
その4年前、1985年の大晦日(おおみそか)の夜、テレビの生番組で私は坂本と共演したのだ。話題の人物らが大集合して世相を語る。そこで日本のミュージシャンももっと政治的メッセージを歌うべきだとする山本コウタローと、それはしたくないという坂本が大激論となった。音楽と政治は別だと熱弁していた教授の姿を目の前で見ている。
かつて坂本は左翼少年だった。マルクスの著作を読み、デモに参加する。高校時代に学校(新宿高校)でストライキを決行、共闘した同級生が後に内閣官房長官となる塩崎恭久だったという。いつしかそれが非政治的なポップスターとなっていた。それだけに年を経て、反戦、反原発、自然環境保護のメッセージを音楽イベントで発する坂本を見て、驚いたものだ。坂本龍一は転向したのだろうか? そうとは思わない。ニューヨークに移住し、9・11テロに遭遇したことが変化の要因だと本人は語っている。世界の一線で活動するうちにリアルで深刻な事象にぶつかり、自然と内面からわき上がる社会的意識があったのだろう。
坂本の死後に出版された発言録がある。『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』(新潮社)だ。がんが再発し、余命を宣告された彼の心情がその書名となっていた。これは痛切な告白録である。度重なる手術と辛(つら)い抗がん剤治療を経て、衰弱する自己をまっすぐに見つめている。闘病と、葛藤と、そうして音楽が残った。坂本の最後の演奏を記録したドキュメンタリー、真っ白な髪で痩せ衰え、死力を尽くしてピアノに向かうその姿を見て、身が震える。さながら音楽の聖人のようだ。
先の本の後記では、聞き手の鈴木正文によって坂本の最期の日々の様子が記されていた。亡くなるその3月には、再開発による明治神宮外苑の樹々(きぎ)の伐採に抗議する手紙を東京都の小池百合子知事に送っている。死の寸前には、坂本が音楽監督を務める東北ユースオーケストラの公演を病室でリモートで見届け、指導した。被災者の子供が書いた「ありがとう」という詩を吉永小百合が朗読するのに合わせて〈見えない指揮棒をふるように、横たわったまま右手を宙に舞わせた〉。そうして慟哭(どうこく)したという。翌々日、3月28日の明け方、息を引き取った。そのくだりを読んで、私は涙を抑えることができない。坂本龍一は本当の偉人になったのだ、と思った。彼の遺著の最後の一行は以下の言葉である。〈Ars longa, vita brevis. (芸術は永く、人生は短し)〉。まさに、71歳……というその人生は短かった。が、その芸術、坂本龍一のその音楽は、永遠に生き続けることだろう。
私たちの時代が生んだ最良の精神
2017年春、浅田彰の還暦パーティーへと行った。後ろから肩を叩(たた)かれ振り返ると、懐かしい顔が笑っている。「中森くん、生きてる?」。坂本龍一だった。泣きそうになる。がん闘病の話を聞いていた。盟友の浅田のためにニューヨークから来たという。昔話に花が咲いた。1980年代によく一緒に行った神秘的なバー、ほら店内に小さなUFOが来てるって女店主が言ってたじゃないですか? 「ああ、中森くんさ、あそこに何も喋らないバーテンがいただろ? あいつ実は……中学生だったんだ」。えっ! 「その後、再会してね。あの店のママの愛人だったって教えてくれたよ」。驚き、笑った。そうして胸にこみ上げてくるものがある。〝世界のサカモト〟と、ああ、たしかに自分は過去の時間を共有していたのだ。「教授、長生きしてくださいよ」とその背中を見送る。それが最後だった。
今でも時折、坂本の音楽を聴く。デビューアルバムの『千のナイフ』から、遺作の『12』まで。やはり『音楽図鑑』『未来派野郎』『ネオ・ジオ』『ビューティ』等、1980年代のアルバムが感慨深い。一緒にすごした時の思い出が次々と甦ってくる。そうして最後はいつも、メリークリスマス・ミスター・ローレンス……そう、『戦場のメリークリスマス』のテーマ曲を聴いて、涙してしまうのだ。坂本龍一とは何者だったのだろう? 私にとっては博学で音楽好きの親戚のお兄ちゃんのような存在だった。あの気さくで面白い人が、圧倒的な音楽の才能を開花させて世界的な不世出のレジェンドとなったのだ。そうして最期には気高い精神を見せた。私たちの時代が生んだ最良の精神……そんなふうに思う。
時折、ふと考える。ああ、自分は今、坂本龍一のいない世界に生きているのだ……そう気づいて、愕然(がくぜん)とする。神宮外苑の樹々は伐採された。原発の再稼働は容認されたし、ウクライナでガザでイランで戦争は絶えず、たくさんの子供たちが命を落としている。世界は彼が望んだのと真逆の方へと向かっているようだ。絶望の色が日増しに濃くなる。しかし……。ふいに音楽が耳に飛び込んでくる。彼の音楽が。その瞬間、目の前がパッと明るさを取り戻すのだ。……坂本龍一は生きている。
坂本龍一さん、あなたに会えて良かった。あなたは、人間くさくて優しくて、まぎれもなく私の人生で出逢(であ)ったもっとも偉大な人でした。耳を澄ますと、『戦場のメリークリスマス』のテーマ曲が聴こえる。教授、ありがとう。
(中森明夫)
なかもり・あきお
1960年、三重県生まれ。評論家。作家。アイドルやポップカルチャー論、時代批評を手がける。著書に『東京トンガリキッズ』『アナーキー・イン・ザ・JP』『午前32時の能年玲奈』『青い秋』『TRY48』など多数。近著に自身のアイドル評論人生の集大成たる『推す力』
サンデー毎日6月7日号(5月26日発売)では、他にも「天皇制大論議 “高市1強が推進 男系養子論“ は憲法精神に反する」「“中年の危機”で人生の後半を豊かに変える!」「新型コロナとは何かを改めて問う コロナ禍の全体主義的社会を考える」などの記事を掲載しています。小説・天童荒太「稲妻の旅人」新連載もスタート!











