テクノから音響派を育んだ「日本の電子音楽」?
『intoxicate』Vol.63(2006年8月)
一九九〇年代初頭より台頭した「テクノ」、および九〇年代中頃より顕著になった、特に日本におけるいわゆる「音響派」的表現(「接触不良系」「テクノイズ」「グリッチ」などと呼ばれた一連の傾向)を持った現在の電子音楽およびその周辺状況(コンピュータ音楽、即興音楽などを含む)に、五〇年代初頭から始まった日本における電子音楽の発展の歴史がいかに関係しているか、あるいはどのような影響を与えているか。
ということを考えてみると、やはり、先にあげた「日本の電子音楽」が現在における「テクノ」や「音響派」を育んだ、というような直接的な影響関係は実際のところ非常に稀少なものであり、当然のことながらそれらは、「日本の」電子音楽のみならずさまざまな音楽動向を反映した結果としてある。むしろ、かつての電子音楽における探究の時代が現在の音楽状況から逆照射されることによって再発見され、現在の「音響派」にいたる状況がそれらを参照する機会が与えられたと考えられる。そうした現在から過去への参照は、その影響関係を直線的な音楽の進化史観のもとにとらえ直すのではなく、この半世紀にわたる時間を断続的に展開されてきた、不連続の連続としての日本における電子音楽の運動を、点と点をつなぐように線分を引いていくことで可能となるだろう。
五〇年代の初頭より、日本でもミュージック・コンクレートに始まり、電気的に発生、合成されて作曲される「電子音楽」が制作されている。NHKでは、五四年頃から電子音楽制作に着手し、五六年に日本初の電子音楽スタジオが開設されると、多くの作曲家はその広大な音楽表現の沃野に可能性を見いだし、黛敏郎、諸井誠、一柳慧、武満徹、高橋悠治といった作曲家が作品を制作している。また、草月アートセンターおよび録音技師奥山重之助も日本電子音楽の黎明期に重要な役割を果たした。このように当時の作曲家が少なからず電子音楽の制作に着手したのは、新しい作曲法や新しい音色といった、ある種の未来の音楽へのヴィジョンがあっただろう。
そして、六〇年代を通じたさまざまな試みの集大成として七〇年の大阪万博があり、多くの現代音楽家がこの国家規模の一大イヴェントに参加した。映像ではマルチスクリーンによる手法が用いられ、音楽でも膨大な数のスピーカーに多チャンネルのテープ操作による音像移動など、従来のコンサートにおける体験とは異なる、ステージと客席との関係を取り払った環境的(エンヴァイラメンタル)なプレゼンテーションが多くなされた。また、インターメディアと呼ばれる、音響、映像、照明など総合した、視覚や聴覚を相互に媒介するような知覚体験としての作品が試みられた。これらの実験は、しかし、万博終了後に継続、発展されることはなく、以降七〇年代を通じてテクノロジー、未来礼賛主義への反動として、こうしたテクノロジー・アートの趨勢は音楽および美術の領域でも衰えてしまう。
一方、六〇年代の後半は、ポピュラー音楽の領域においても、その範疇におさまらない表現が希求されるようになり、電子音楽との邂逅が社会的な連関のなかで準備されていく。若者文化の勃興が社会的文化的に大きな動向となり、サブカルチャーの域を超え出て美術作家やデザイン、ファッション、映画、文学など多岐にわたる芸術文化ジャンルの交流が密になる。内田裕也とフラワーズが参加した一柳慧の《オペラ 横尾忠則を歌う》(一九七〇)など、アヴァンギャルドや電子音楽がポピュラー音楽と接近していく。「感覚の拡張」を目指した音響表現として、電気的な音響処理などを多用するようになる六〇年代後半のロックにおいては、しかし、英米の先鋭的ロックからの影響が濃厚であろう。また、七〇年代に入ると、鍵盤付きのシンセサイザーがポピュラー音楽の領域でも多用されるようになる。
そして、いわゆる「テクノポップ」がクラフトワークなどのドイツのシンセサイザー音楽を経て登場し、リズムボックスやシーケンサーによる機械的な反復を特徴として、無機的、人工的であることをあえて強調することで新たな音楽様式および現在にいたる電子音楽の美学を提示した。八〇年代以降に確立されていくいわゆるノイズ・ミュージックでは、具体音のコラージュ、暴力的な電子音、金属の廃材などを打楽器として使用するなどの傾向がみられ、音響的な指向やサンプリング・ミュージックへ引継がれる要素が聴かれる。そして九〇年代に入り、ハウス・ミュージックの登場から「テクノ」へ。特にダンス・ミュージックに特化した、余分な装飾を剥ぎ取った匿名的なトラックの数々にはブリープ・テクノなど、のちのフリケンシー・ミュージックへの連関が聴き取れるものが登場する。
このようなそれぞれの時代における電子音楽の特徴的な傾向は、連続的、段階的に発展したわけではなく方法論の交代のような形であらわれている。こうした一連の断続的な実践が、前史として果たして現在の日本の電子音楽にどのような影響を与えたのか。たしかに、今日の「テクノ」や「音響派」を経由した電子音楽(語感としてエレクトロニック・ミュージックと呼ぶ方がしっくりくる)に顕著な、「サイン・ウェーヴ・ルネッサンス」と呼ばれるような動向、あるいは音楽と映像によりもっと体験的な何かに訴えかける上演形態などには、異なる時代と状況に発生しながら、電子音楽黎明期からの記憶を呼び覚ますものがある。当時は、鈍重な機材に膨大な時間と労力を費やし、また、録音の誤消去やデータの欠損といったアクシデントに見舞われながら中断を余儀なくされるものもあった。ゆえに、それらは一回性の実験という性質の強いものとなってしまった。そして、パーソナル・コンピュータの処理能力の飛躍的な向上や簡便化が、それら未完の実験への再試行を準備し、再解釈が可能となったのだといえるだろう。
参考——川崎弘二著、大谷能生協力『日本の電子音楽』愛育社、二〇〇六年
