
300人が見守るステージ上で、胎児性水俣病患者の古山知恵子さん(60)が静かにペンを走らせる。その文字はプロジェクターで会場に映し出され、支援者が読み上げた。
「私をこんな体にしてどうしてくれるんですか。私を生まれ変わらせてください」
発話が難しいため、被害者代表あいさつはこうした形をとった。
5月31日、新潟水俣病は「公式確認」から60年の日を迎え、式典「歴史と教訓を伝えるつどい」が行われた。初めて式典に参加し、あいさつを務めた古山さん。この日、原因企業のレゾナック・ホールディングス(旧昭和電工)と、政府に訴えたかったことがあった。
他の参加者たちも、長年の苦しみを政府にぶつけた。被害者の思いは、どう受け止められたのか。(共同通信新潟支局)
▽新潟でただ1人の胎児性水俣病患者

式典のおよそ2週間前、古山さんが取材に応じてくれた。母親の胎内でメチル水銀の影響を受けた。胎児性水俣病として新潟でただ1人、患者認定されている。式典で何を訴えたいか尋ねると、筆談で答えてくれた。
「私の人生をもう一度やらせてください。かえしてください。せめて話せる人にしてください」

古山さんは新潟水俣病公式確認の1965年、新潟市の阿賀野川沿いで漁業と農業を営む一家の長女として生まれた。
昭和電工の工場排水で汚染されているとは知らず、妊娠中の母親も魚を食べた。古山さんは生後11カ月を過ぎても首が据わらず、4歳で患者認定された。
生まれつき手足を自由に動かせず、移動には車いすを使う。言葉を発することが難しく、小学生の頃から筆談でコミュニケーションを取る。曲がった指を使い、ペンを握り、紙やスマートフォンで思いを伝えている。
▽熊本と異なる支援体制

長年世話をしてくれた母親は高齢になり、古山さんは10年以上、障害者施設で暮らす。夢は1人暮らしだ。今年3月、熊本県を訪れた際、胎児性水俣病患者らのグループホームや、リハビリなどの行政支援があることを知り、驚いた。新潟では障害者支援しか受けていない。
「同じ患者なのに、施策がないのはおかしい」
▽社長は面会に応じず

式典に出席するのは初めてだ。注目され、母たち家族を巻き込むかもしれないと、ためらいもある。しかし参加を決意した。
「病気を知ってほしい。忘れないでほしい」
出席予定のレゾナック高橋秀仁社長に、現地での面会を申し入れたが、断られた。「この身体になり、辛い思いをしている。1人暮らしやリハビリができるよう、力を貸してほしい」と言いたかった。
式典当日、支援者によると、高橋社長は古山さんが差し出した手紙を受け取ったが、特に会話はなかったという。高橋社長は式典後、記者団の質問には応じず、会場を後にした。
▽被害を訴える声はやまず

新潟水俣病は、1965年5月31日、新潟大学から新潟県への発生報告をもって公式確認とされる。水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそくと並び四大公害病の一つだ。

新潟県鹿瀬町(現阿賀町)にあった昭和電工鹿瀬工場の排水に含まれていたメチル水銀が阿賀野川に流出し、汚染された魚を食べた住民が手足の感覚障害や視野狭窄(きょうさく)を発症した。
公害健康被害補償法(公健法)に基づき、認定患者には補償費などが給付されるが、認定基準は厳格だ。これまでに717人が患者認定された一方、1649件が棄却されている。症状を訴えながら患者認定されない住民らが、認定や賠償を求めて複数の訴訟を続けている。
▽「官僚の書いたものを読むだけか」

5月31日、式典前の午前中に、被害者3団体と浅尾慶一郎環境大臣との懇談があった。被害者側は、患者認定されていない被害者の救済を訴えた。
浅尾大臣は「公健法の丁寧な運用を進める」と繰り返し回答。新潟水俣病阿賀野患者会副会長の皆川栄一さん(81)は「解決しようという姿勢が全く見られない。早期解決に向けた大臣の言葉を聞きたかった」と語気を強めた。「官僚の書いたものを読むだけなのか」と詰め寄る場面もあった。
皆川さんは、医師と新潟地裁から患者と認められたが、行政への患者認定申請は棄却されたままだ。国とレゾナックに損害賠償を求める訴訟が10年以上続いている。
▽「死を待って幕引きか」

「被害者が亡くなるのを待つのか」。懇談では、被害者側から激しい言葉が続いた。浅尾大臣はそれでも「公健法の丁寧な運用を進める」と繰り返し、議論は平行線をたどった。
新潟水俣病共闘会議幹事長の高野秀男さん(74)は、被害者による訴訟が長期化し、政治解決も見通せないことに「高齢化する被害者の死を待って幕引きしようとしているのではないか」と不信感をあらわにした。
浅尾大臣は「訴訟が行われており、この場で話すことは控える」とかわした。
懇談後、皆川さんはこう感想を漏らした。「水俣病はもはや解決済みという考え方でやっていると思った。主張が全く伝わっていないと感じた」
▽「いまだに新潟水俣病は終わっていない」

午後には式典「歴史と教訓を伝えるつどい」が始まった。式典は新潟県や被害を受けた阿賀野川流域の自治体、被害者団体、レゾナック、政府関係者らでつくる実行委員会が主催。皆川さんと、冒頭の古山知恵子さんが被害者を代表し、あいさつした。
皆川さんは「いまだに新潟水俣病は終わっていない」と患者認定制度の厳格な運用を批判し「生きているうちに解決を」と訴えた。
浅尾大臣はあいさつで「公害の歴史と教訓を、風化させることなく次の世代に伝えていく」と述べた。
▽「体が切ない。しびれがあり、痛くて眠れない」

式典後は、別の被害者団体と浅尾大臣が懇談した。患者認定を求める訴訟の原告女性は、幼少期から家族で阿賀野川の魚を食べたことを振り返り「体が切ない。しびれがあり、痛くて眠れない。認定の仕方を考えてほしい」と訴えた。
浅尾大臣は「患者認定基準は、これまでの最高裁判決で否定されていない」と述べるにとどめた。
▽涙の手紙

懇談に参加していた古山知恵子さんは、浅尾大臣に手紙を渡した。
「最初の水俣病が起きた時、国がしっかり対策をとってくれていれば、新潟で第2の水俣病は起きなくて済んだのではないでしょうか」
「普通に結婚して家庭を持てたのではないでしょうか。私はせめてしゃべることができたなら良かったのにと今も思います」
つづられたのは、古山さんの半生や、その中で感じた障害者福祉への違和感。そして、生まれてからさらされてきた境遇への強い不満だった。
手紙を渡す古山さんの目からは涙がこぼれ、おえつが会場に響いた。
古山さんは、浅尾大臣から「熊本と同じように(施策を)やる」と伝えられたという。懇談後の取材に「実際どうなるか見守りたい」と記した。
筆談の字にいっそう力がこもる。「昭和電工が毒を流さなければ、私たち患者は生まれなかったし、苦しまなかった。そのことが悔しい」
(取材・執筆は新潟支局=簑口典華、井上慧、石黒真彩、近藤優士、社会部=松本智恵、一部写真は写真部=猪狩みづき)
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