スマートフォンは誰のものか

私たちはスマートフォンを「購入」したと思っている。しかし本当にそれを「所有」しているのだろうか。
現代社会において、スマートフォンはもはや単なる通信機器ではない。財布であり、身分証明書であり、コミュニケーションの手段であり、情報へのゲートウェイである。多くの人が一日の大半をこの画面の前で過ごす。しかし、この「ポケットの中のコンピュータ」を本当にコントロールしているのは誰なのか。
ソフトウェアの自由の原則
ソフトウェアの自由については以前も論じたが、フリー(自由な)ソフトウェアやオープンソースという以前に、最も根本的な原則がある。「自分が持っているデバイスに何を入れてどう使おうとユーザの勝手だ」ということだ。
パソコンを買ったとき、LenovoやDellがインストールできるソフトウェアを決めることなどあり得ない。好きなプログラムをダウンロードし、自作のソフトウェアを動かし、メーカが気に入らないツールでも自由に使える。これが当たり前だった。
ところがスマートフォンの世界では、この当たり前が通用しない。iPhoneユーザはAppleのApp Storeからしかアプリをインストールできない。Androidは従来サイドローディング(公式ストア以外からのインストール)が可能だったが、Googleは最近「認証済み開発者」要件を導入し、この自由を制限しようとしている。私たちが購入し所有しているはずのデバイスで何ができるかを、AppleとGoogleという2つの巨大企業が決定しているのだ。
集中管理がもたらすリスク
この構造がなぜ問題なのか。米国で最近起きた事例が象徴的だ。
米移民税関捜査局(ICE)の活動を市民が匿名で報告できるアプリ「ICEBlock」が、司法省の圧力でAppleのApp Storeから削除された。翌日にはGoogleも類似アプリ「Red Dot」をPlay Storeから削除した。米国トランプ政権の排外主義政策に賛成か反対かは別として、政府機関の活動を市民が報告する権利は、民主主義社会における言論の自由の核心部分だ。しかしアプリストアの寡占構造のもとでは、政府が一声かけるだけで、何百万人もの市民からツールを一瞬で奪い去ることができる。かつて言論弾圧の対象は新聞などのマスメディアだった。今はスマホを持つ私たち自身だ。
これは米国だけの話ではない。Appleは中国政府の要請に応じて、中国のiPhoneユーザが利用できるアプリを削除してきた。同性愛者向けの出会い系アプリを禁止し、VPNアプリを削除した。自社の労働慣行を批判するゲームをブロックしたこともある。コントロールのレバーが存在する限り、それを使おうとする権力者はどこの国でも必ず現れる。
日本も例外ではない。仮に政府が特定の市民活動アプリや内部告発ツールを「治安上の懸念」を理由に削除要請したとき、AppleやGoogleは抵抗するだろうか。彼らのビジネスにおいて日本市場がそれなりに大きな地位を占めている以上、その保証はどこにもない。現在の構造は、将来の濫用を技術的に可能にしてしまっている。
欧州と日本の対応
EUはこの問題に対してすでに行動を起こした。デジタル市場法(DMA)により、Appleに代替アプリストアとサイドローディングの許可を義務付けたのだ。その結果、AltStoreのような代替マーケットプレイスが欧州では利用可能になっている。しかしAppleは今のところ、この自由を欧州のユーザにのみ認め、日本を含む他の地域には認めていない。同じ製品を買っているのに、住んでいる場所によって自由の度合いが異なるのである。
日本でも2025年12月から「スマートフォンにおいて利用される特定ソフトウェアに係る競争の促進に関する法律」(通称:スマホ新法)が全面施行され、サイドローディングの許容が義務化される。Appleなどは米国政府や一部インフルエンサーへのロビイングを通じて日本政府を牽制しようとしているようだが、ユーザが自分のデバイスで何を実行するかを選ぶ権利は、ソフトウェアの自由の問題であり、表現の自由と民主主義の問題でもあり、消費者保護の問題であると同時にデジタル主権の問題でもある。
セキュリティという口実
「セキュリティのために集中管理が必要だ」という反論があるかもしれない。しかしこの主張は精査に耐えない。
2025年2月に発覚した「SparkCat」マルウェアは、約1年にわたってAppleのApp StoreとGoogle Playの審査をすり抜け、Google Playだけで数十万回ダウンロードされていた。公式ストアの審査は万能ではない。一方で、小さな非営利団体が開発したGrapheneOSは、警察に白眼視されるほどの高度なセキュリティを実現している。中央集権的な審査体制がセキュリティを保証するという主張には、根拠がない。
「一般ユーザには安全なアプリを判断する能力がない」という反論もあるだろう。しかしPCの世界では、ユーザは数十年にわたって自由にソフトウェアをインストールしてきた。問題が皆無ではないにせよ、社会は機能している。そもそも、選択肢が存在することと、危険なアプリのインストールを強制されることは全く別の話だ。サイドローディングを認めても、大多数のユーザは引き続き公式ストアを使うだろう。重要なのは、選ぶ権利があるかどうかだ。
F-DroidやAccrescentのような代替アプリストアは、プライバシーを尊重し、ユーザの監視を行わない。オープンソースソフトウェアのエコシステムは、企業のスパイウェアに汚染された公式ストアよりもよほど健全だ。サイドローディングを認めることで、こうした選択肢がすべてのユーザに開かれる。
私たちのデバイスは私たちのもの
私たちのポケットの中にあるデバイスは、すでに監視装置としての性格を強めている。位置情報を追跡し、インストールされたアプリを記録し、行動パターンを分析する。この上さらに、政府や企業が気に入らないツールを使う自由まで奪われるなら、それはもはやスマートフォンではなく「ポケットに入った監視モニタ」と呼ぶべきだろう。
自分が所有するデバイスを自分でコントロールする権利。これは技術的な些事ではない。デジタル時代における市民的自由の根幹である。私たちのスマートフォンは、私たちのものであるべきだ。
今年12月のスマホ新法施行は、日本のユーザがこの権利を取り戻す第一歩となる。しかし法律は制定されただけでは意味がない。プラットフォーム企業がどのように対応するか、抜け穴を作ろうとしないか、私たち自身が監視していく必要がある。私たちのスマートフォンを、私たちの手に取り戻せるかどうか。それは、私たち自身の関心と行動にかかっている。





